21

21歳になった。だからといって自分の中で大きな変化があるわけでもなければ、体が大きくなるわけでもない。ただ数字が変わるだけなんだけど、やはり何かしらのことは変わっているのかもしれない。例えば「責任」。たしかに年々「自由」を少しずつ手に入れつつある感覚はあるけれど、「自由」はそれ単体で享受できるようなものではない。つまり、「自由」を手に入れるということは同時に「責任」も背負うということ。まだまだ家族の援助にすがっている私は完全に「自由」ではないけれど、その分全責任を自分が負うということもない。でも今日21歳になったということは、21歳の私は20歳の私よりも多く「自由」を手に入れられるだろうけれど、「責任」もより多く背負うことになる。多分これが世間一般に言う「大人になる」ということなんだと思っている。

 

昨日、今までのことを思い出していた。思えば、小・中学生の頃から周りの大人や面倒な制度に違和感を抱いていた。でもその時の私はその違和感がいったいなんなのか皆目検討がつかず、うまく言語化することができなかった。むしろそんな感覚を抱いている自分の方がおかしいんじゃないかと思っていた。高校に入るとその違和感はさらに大きくなった。私の通っていた学校はとにかく入学した瞬間から受験一色だった。定期試験や受験のための勉強という感じで、とにかく退屈だった。人生は今後も続いていくのに、まるで受験がゴールとでもいうような日々。おまけに周りの生徒もそういうやり方に何の違和感も感じずに過ごしていた。一緒にいたくもない人と毎日同じ部屋に押し込められて過ごさなきゃいけない毎日は苦痛そのものだった。(クラス制度をなくせばいじめも減りそうな気がする)でもその時の私は反抗心はあってもそれを表に出す勇気まではなくて、やっぱり心のどこかで「異端者」として扱われることに恐怖心のようなものがあった。だから毎日学校に着くと仮面を被って、帰宅すると仮面をはずす日々だった。そして卒業後、東京へやってきた。正直、私の人生はここから始まったといっても過言ではない。東京で恩師と出会い、初めて勉強が愉しいと思った。(と同時に今までどれだけ自分が何も知らなかったのかということや無関心という一種の暴力のようなものを行使してきたのかも理解し始めた)恩師にcritical thinkingという眼鏡をもらったことによって私の考え方は大きく変化した。もちろんこれは愉しいことばかりじゃないし、時々自分に辟易してしまうことはあるけれど、知らなかった頃にはもう戻りたくない。どれだけ目を瞑りたくなるような現実でもちゃんと見つめて、自分自身で選択をしていきたいから。恩師との出会いだけじゃなく、様々な境遇の人にも出会って親交を深めてきた。それから、今まで心の支えとしてきたSNSの友人とも会うことができた。(本当にSNSのある時代に生まれてよかった)そういう新たな出会いのおかげでたくさんのことを学んだ。嫌なことやおかしいと感じたことははっきりと言ってもいいということ。もしそれで離れていく人がいたり、今の場所で生きにくくなったら場所を変えてもいいということ。自分の考えを受け入れてくれる場所は必ずあるから。それくらいには「世界」は広い。そういう風に考えたら今までより少しだけ生きるのが楽になった。今の場所が全てではない、そう思えるだけでも全然違う。

 

私たちは今の状態でperfect、あとはどれだけプラスにしていけるかでマイナスになることはない。これは昨日友達から聞いた言葉。これ、本当にいい考え方だなと思う。私も含め、大方の人がそうじゃないかなと思うんだけど、すごく自己肯定感が低い。「私なんかが」っていう気持ちが常に心のどこかにある。社会的にも自己責任論がすごく強いから、何かあるとすぐ自分のせいだと感じてしまう。本当は社会構造によってそうなってしまっている場合も多いのに。多分私たちはもっと今の自分に対して自信をもってもいい。今のままでもすでに素晴らしいけど、今よりもっと素敵な人になるにはどうすればいいんだろうって考えた方がワクワクする。私ももっとそういう生き方にシフトしていきたい。