定義することと排除すること

 昔から「あなたは〇〇だよね」って言われるのがすごく嫌で、勝手に決めつけないでよって思ってた。つまりカテゴライズされて、定義づけられることに強い嫌悪感を抱いていたと言ってもいいかもしれない。

 

 ところが、最近すごくモヤモヤしていることがある。それはここ数年、自ら「ベジタリアン」や「ヴィーガン」を名乗ってきたこと。実際にわたしの食生活はそういう類のものだし、そこに至る過程も自分なりに考えて選んだものではあるのだけど、わざわざ「わたしはヴィーガンです」ということに窮屈さを感じてきているのも事実。これは別に「ヴィーガン」だけに限らないけど、そういう言葉を使って定義づけることによって、たしかに一部の人を救うこともあるけど(実際に私も高校生の頃は周りにそういうことを考える人がいなかったから、そのカテゴリーの中に入ったことで「仲間」はできた)同時にそれは他の人を排除することにも繋がってしまうんじゃないかと感じている。境界線を引くことは、そこに含まれた人にとっては安全地帯になったとしても、含まれなかった人との間には明確な壁を作ることになる。壁を作った後では、まっさらな状態からの関係構築は不可能。しかも、「ヴィーガン」のような言葉に付随するイメージの影響からも免れられない。そのイメージはわたし自身を表すようなものではないのに、いつのまにかわたしも含まれることになってしまっている。どんなに弁明しようとも、「でもあなたもヴィーガンだよね」の一言で打ち消されてしまう。これは正直悲しい。

  

 それからこれは私だけがなんとなく嫌だと感じたにすぎないかもしれないけれど、日本では「ヴィーガン」や「ベジタリアン」がかなり少数派だからか、そう自称すると必ずと言っていいほどこう聞かれる。「なんでヴィーガンになろうと思ったの?」この質問に悪意がないことはわかっているし、単純に興味があるだけなんだろうけど、この質問をされるたびに思わずため息が出てしまう。ある程度親しい仲なら話そうかなとも思うけれど、初対面で聞かれるとちょっとびっくりしてしまう。だって、初対面の人に家族構成のこととかセクシュアリティのこととかって聞かないでしょう?私にとっては「ヴィーガン」のライフスタイルを選んだ理由もとてもパーソナルなことだし、それを語るということは自分自身のライフヒストリーの一部を語るということ。そこにはもしかしたら痛みや苦しみを伴わせるかもしれないということを、聞き手は全く考慮に入れていないんだろうな。毎回この質問を受けることにちょっと疲れちゃった。

 

 

 私はこれからもずっと境界線上の曖昧な存在であり続けたい。「話してみないとわからない」という人間でありたい。というわけで、今日から「ヴィーガン」を自称することはやめてみようと思う。