202109

 

【読書編】

大前粟生『おもろい以外いらんねん』
大前粟生『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』

久しぶりに大好きな作家だと思える作家に出会えた気がする。きっと정세랑さん以来? 『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』は実は以前も読んだことがあって、そのときも好きだと思っていたけど、今回『おもろい以外いらんねん』を読んでから再読したら、一層大切な作品になった。ピリピリと痛むし、身に覚えのある感覚がたくさんあって、読むことが苦しくなることもあるけど、痛いのにいい意味で軽快さがあって、だけど残るものはやさしく重い。何度も読み返したいし、いつも目に見えるところに置いておきたい。大前粟生さんの他の作品も、今出ているものは全部読みたい。

 

カロリン・エムケ『イエスの意味はイエス、それから…』

『なぜならそれは言葉にできるから—証言することと正義について』以来のエムケ。ずっと読みたいと思っていたけど、後回しにしてしまっていてようやく!夏休み前に図書館で借りて、本棚に置いていた。小田急線の事件の後、インターネットを見ることが辛くて、むさぼるように本を読んでいたのだけど、本棚に目をやったとき、「これはきっと今読むべき本だ」と思い、読んだ。今回も相変わらず付箋だらけ。エムケ自身も、そして訳者の浅井晶子さんも言っているけど、前作とはだいぶ形式が異なっていて、注釈の少ない「つぶやき」のモノローグだ。わたしはこの形式がすごくよかったと思ってる。訳者あとがきで「『つぶやく』ように書かれた文章は、この問題を考察する際に著者にとって唯一可能な形式であると同時に、凝り固まった社会の価値観と、その価値観のなかに否応なく絡めとられた私たちの思考とを突き破るための手段でもあるのだ。虐待と抑圧を可能にする『権力』構造を暴き出し、それを突き崩していくためには、『普遍的な理論も、確実な道具もない』。だからこそこう書くのだと、エムケはフーコーの言葉を引用しつつ主張する」。このあとがきを読みながら、李静和の『新編 つぶやきの政治思想』を思い出した。この本もわたしにとってとても重要で大切な1冊だ。ままならない言葉、形式に沿っていない言葉、吐き捨てられるように何気なく発せられた言葉、そこに可能性はあるんじゃないかと思っている。

 

上間陽子『海をあげる』

ずっと読みたいと思っていて、2ヶ月前くらいに古本屋さんで入手して、そこからさらに積読期間を経てようやく読むことができました。話題になってるだけあるなと思える素晴らしい作品だった。前作の『裸足で逃げる』も読みたくなってしまった。沖縄の日常がどういうものなのか、日常の中でどれだけの大きな力によって人々の生活が蝕まれているのか、なんとなくその一端を感じることができた気がしたし、同時に今いる場所で何をしていけるだろうかと考えた。この作品から上間さんの聴く力、聴き取る力のすさまじさを見た気がした。どんな言葉も聞き逃さないようにしているのだろうし、聞き取られてこなかった言葉を引き出そうともしているのだと思った。人の声というのは、なんとなく聞こえてくるのではなく、それを聞こうとする人がいて初めて聞き取られるものだと思うから。特に印象に残っているのは、「ひとりで生きる」の冒頭の文章。「いつか加害のことを、そのひとの受けた被害の過去とともに書く方法をみつけることができたらいいと、私はそう思っている」、わたしも本当にそう思う。上間さんの研究・調査関心とわたしのは同じではないけど、わたしもそういう背反的なことを同時に記すことは可能なのだろうかと考えることが本当によくあるから。まだ方法はわからないけど、言葉を、声を、探し続けたい。

 

森崎和江中島岳志『日本断層論—社会の矛盾を生きるために』 

今年の残りの期間はすこし森崎和江や山代巴の著作を読んでいきたいなと思っていて、今月はその前段階として対談を読んでみた。対談だから内容自体が難解なわけではないんだけど、個人的にはインタビュアーの発言が多くて「うーん」と思ってしまった。森崎和江の著作をかなり読み込んできたということはすごくわかるのだけど、彼女の発言の前にインタビュアーが要約してしまう部分が多くて、わたしはもっと森崎和江の発言が聞きたいんじゃ!と思いながら読んだ。来月以降は実際に森崎和江の著作を読んでいきたい。ひとまず、今月初めの古本市で『からゆきさん』をゲットしたから、まずはそこからかな?

 

Angela Chen "Ace: What Asexuality Reveals About Desire, Society, and the Meaning of Sex"

Not experiencing sexual attraction doesn't prevent aces from experiencing aethentic attraction, which means finding someone beautiful without that beauty being a sexual motivator.

 

Heterosexuality is a political institution that is taught and conditioned and reinforced.

 

It is a set of assumptions and behaviours -that only heterosexual love is innate, that women need men as social and economic protectors- that support the idea of heterosexuality as the default and only option. It makes people believe that heterosexuality is so widespread only because it is "natural", even though, as Rich writes, "the failure to examine heterosexuality as an institution is like failing to admit that the economic system called capitalism where the caste system of racism is maintained by a variety of forces, including both physical violence and false consciousness".

 

Building off this idea, compulsory sexuality, an idea central to ace discourse, is not the belief that most people want sex and have sex and that sex can be pleasurable. Compulsory sexuality is a set of assumptions and behaviours that support the idea that every normal person is sexual, that not wanting (socially approved) sex is unnatural and wrong, and that people who don't care about sexuality  are missing out on an utterly necessary experience.

 

Make no mistake: Sex is political, and it's meaning is always changing.

 

...sex negativity exists alongside compulsory sexuality; people celebrate queerness even while homophobia is rampant.

 

One of the more obvious examples of compulsory sexuality is the fear of a sexless popluation.

 

Performing sexuality provides access to formative friendships and respect; it can be more social than personal. The lack of the right kind of sexual behaviour is a barrier to connection, so men's talk and behaviour can be less about wanting sex than it is about wanting friends.

 

 スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』

感じることが必ずしもよいとはかぎらない。周知のように、感傷性は残忍さの思考と完全に両立する。(アウシュビッツの司令官が夜帰宅して妻や子供たちを抱擁し、夕食まえピアノに向かってシューベルトを弾く、あの典型的な例を思い出すとよい。)人々は自分達に投げつけられる映像のゆえに、その映像に慣れる(というのが適切な表現ならば)ことはない。感情を鈍化させるのは受動性である。無感動あるいは道徳的・感情的知覚麻痺と形容される状態は感情に満ちていて、その感情は怒りと挫折である。だがどのような感情が望ましいかと考える場合、同情を選ぶのは単純にすぎる。他者が遭遇し、映像によって確認される苦しみへの想像上の接近は、遠隔の地で苦しむ者(テレビ画面でクローズアップされる)と特権的な視聴者とのつながりを示唆するが、それはけっして本物ではないし、権力とわれわれとの真の関係を今一度ぼやかしてしまうだけである。同情を感じるかぎりにおいて、われわれは苦しみを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる。われわれの同情は、われわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する。そのかぎりにおいて、それは(われわれの善意にもかかわらず)たとえ当然ではあっても、無責任な反応である。戦争や殺人の政治学にとりまかれている人々に同情するかわりに、彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在し、或る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように、われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているかもしれない—われわれが想像したくないような仕方で—という洞察こそが課題であり、心をかき乱す苦痛の映像はそのための導火線にすぎない。

 

これは地獄だと言うことは、もちろん、人々をその地獄から救出し、地獄の却火を和らげる方法を示すことではない。それでもなお、われわれが他の人々と共に住むこの世界に、人間の悪がどれほどの苦しみを引き起こしているかを意識し、その意識を拡大させられることは、それ自体よいことである。悪の存在に絶えず驚き、人間が他の人間に対して陰惨な残虐行為をどこまで犯しかねないかという証拠を前にするたびに、幻滅を感じる(あるいは信じようとしない)人間は、道徳的・心理的に成人とは言えない。ある年齢を超えた人間は誰しもこのような無垢、このような皮相的態度、これほどの無知、あるいは健忘の状態でいる権利を有しない。

 

 

【映像編】

『返校』


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『スウィング・キッズ』


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슬기로운 의사생활』『달려라 방탄!』は先月同様、引き続き観ている。『달려라 방탄!』は新しいエピソードが始まって、とてもうれしい。毎週のたのしみが増えた。

 

ガールズ・プラネットを見てしまっている。パフォーマンスがすばらしくて、みんながんばれー!と思っているけど、基本的にサバイバルオーディションは残酷だから好きではない。冒頭から、今のKpop市場がコロナで苦境に立たされていることがわかるような部分もあって、かなしいなと思った。まだ10代の若い子達が多くて、そんな子達がギリギリの精神でやっているのかもしれないと思うと、なんともヒリヒリするような気持ちだ。

 

今月はあまり映画を見なかったな。

 

【その他】

・ここ数年は毎年のように九州地方で水害が多い。先月は関東でも熱海がひどかった。ただでさえコロナ禍でsurviveすることが易しくないのに、ほんとうにしんどいね。わたしが暮らしている地域はそこまでではないけど、被害を受けている人々がいることがいつも頭の片隅にある。

・大切な友達が過去に撮って現像した写真を送ってくれた。彼女の撮る写真がほんとうに好きだ。愛おしい時間を詰め込んだような写真。こういう時間の積み重ねが、しんどいときの心の拠り所となる。

・ワクチンの2回目を接種した。こうしてスムーズに接種を終えられたことが本当にラッキーだとしか思えないような体制。先日の都知事の発言は本当に「は?」と思った。打ちたくても打てない人がわんさかいるよ。わたしは割と今まで薬の副反応が出やすい体質で、実は今回のワクチンも内心ドキドキしていたのだけど、まさかの2回目も何も起きなかったです。(腕は痛くなって腫れたから何もなかったというのは言い過ぎかな?)でも、熱や頭痛は一切なかった。ネット上には副反応出た人の体験談ばかりが出ているから、案外わたしみたいにほぼ何もなかった人の声が大事かもしれない。ちなみに母は熱と頭痛が出ていた。年齢が若ければみんな一様に副反応がつらいわけでも、逆に年齢が50代60代だからといって軽いわけでもないみたい。

・ジミンさんのVliveがちょうどリアルタイムで見れた。前よりも話している話題や単語が聞き取れるようになっていて、とてもうれしい。なんとなくこんなこと話してるのかな〜って思って、後でTwitterで翻訳してくれてる人のツイートを確認したら概ね合っていてうれしかった。

・今月はほぼ毎日韓国語を勉強できている。時間の多寡には差があるけれど。数日空いてしまうと、すぐに忘れてしまうから、やっぱり語学は継続が要なんだなぁとしみじみ思っている。まだようやく歩き始めたようなものだから、あまりにも目指す場所が遠いと落ち込んでしまうことがあるけど、英語よりも自分と近く感じるから不思議だ。それは単に文法や語彙の類似性ということもあるかもしれないけど、英語と違って全く強制力がないのと、植え込まれたネイティブ神話がないからかもしれない。英語は今まで学校の試験なんかはほぼ満点、外部試験でもそこそこの点数みたいのが普通だったけど、だからこそ(なのかもしれない)、英語を流暢には話せないこと、不完全な発音であるということに人一倍の劣等感や羞恥心を感じてきた。

・2014年(まだ高校生だったとき…!!)に作ったらしい梅シロップが奇跡的に実家の冷蔵庫の奥の方に保管してあったようで、しかもまだ腐ってないということで、飲んでみた。ふつうにおいしくておったまげた。自分的ベストな飲み方は、炭酸水割り、レモン汁足し、粗塩少々。夏に最高なドリンクで、いくらでも飲めてしまう。

・立ちくらみがひどくなってきていて、病院へ行くか迷っている。これくらいで病院へ?という気持ちもあるけど、それ以上にこれだけ状況が過酷になってきているなかで病院へ行くということそのものがリスクがあるように思えてしまうこと(院内にどれだけ人がいるのかもわからんし)、医療のリソースがコロナに大きく割かれているなか自分が行くことでそのリソースのほんの一部でも割かれてしまうことに幾ばくかの罪悪感がある。とはいえ、やばくなってからでは自分も怖いので、行けるタイミングや体調を見つつ行った方がいいよなとは思っている。

・もうそろそろ夏、終わっていいよ?暑いのはもういいです。