2021/11/11 うつろいゆく季節のなかで

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最近は日記を途中まで書いて、最後まで書き上げられずに下書き行きというパターンばかりだった。いつのまにかもう11月も約3分の1が終わってしまって、相変わらず焦ってばかりの日々。少しだけ、最近のことをここに書き留めておく。

 

11/1

忙しくて体感時間としては1ヶ月もなかったような10月が終わって、11月。特に10月の最終週は発表関連が多くて、でも忙しかった割には何に対しても集中できていなかったような気がする。選挙結果にもがっくりきたし、でも今まで考えてこなかったこともいろいろと考えた。悲しくて悔しくてしんどいことには変わりないが。それでも、水曜日のゼミの報告は救われるような想いだった。曖昧で、何を言うにも適切な言葉がないようで、自分の伝えたいことが伝わるのかいつも不安だったけれど、ゼミの場では本当に優しくて真剣な人ばかりが、それぞれに意図を汲み取ってくれようとしてくれるから、ありがたい気持ちでいっぱいだ。とはいえ、ゼミの直前に発生した例の事件の打撃があまりにも大きくて、報告を終えても、11月に入っても、なんとなく埋まらない穴のようなものはそのまま維持されている。時間の経過とともにその穴の大きさに気づきにくくなることはあっても、決してその穴が消えるわけではない。今までもずっと自分の考えていることには自信がなかったけれど、きっとこれからもっとビクビクしながら研究を進めていくことになるだろう。そこまでしてやることなのだろうかという気もしないでもないけれど、ほんのひと匙でも考えたいという気持ちがあるうちはやめないでおこうと、今は思っている。この日は大好きなむーちゃんと久しぶりにzoomをして、近況報告やPodcastについての軽い打ち合わせなんかをした。時差さえなければいつまででも話していたくなる、それくらいにむーちゃんと共有する時間はたのしくてあっという間に終わってしまう。むーちゃんに例の事件のことを話したとき、一緒に、というかむしろむーちゃんのほうが怒ってくれてうれしかった。この話をすると、みんな自分の味方になってくれて心強い、と思う反面、その話はわたしの感情を交えた話にならざるを得ないから、もしかしたらわたしは誰かに味方になってもらう話し方を無意識的にしているのかもしれなかった。あのときのあの言葉や、立場の違いを利用した言い方は今でもおかしかったと思うけれど、もしあの場にわたしの話を聞いてくれた人がいたら「そんなにひどくないじゃん」「この人の言うことも一理あるよ」と言われる可能性もゼロではないのかもしれない、なんて思ったりもした。この世界には真実なんてなくて、複数の事実があるだけなのかもしれない。

 

11/2 

この日は方法論の授業があった。3人の先生が代わり番こに担当する授業で、最初の先生の担当回はこの日で最後だった。最後の課題は簡単な研究計画の発表。この授業は取ってから実は後悔したんだけど、わたしがやりたい研究の分野や方法とは少しズレがあって、毎回モヤモヤが残ってしまっていた。もちろん学ぶべき点が皆無ということではないのだけど。しかも、この先生含め、うちの研究科の先生はわたしの研究しているテーマになんらかの形でコミットしている人が多くて、だからこそ主流の議論とは違うことをしようとしているわたしにどんな批判を加えてくるのか、おそろしかった。しかもしかも、この先生は例の事件の先生ともかなりつながりがあるので、もしも同じような批判(非難?)を対面でやられたらわたしはボロボロになると思っていた。だから字数の限られた研究計画で、わたしの考えようとしていることをどんな言葉でどれだけの説明を加えて話すかが本当に悩みのたねだった。でも結果から言えば、その不安は杞憂に終わった。批判がなさすぎて心配になったくらい。それどころか、「こんな理論があるよ」「少し対象は変わるけどこんな研究もあるよ」とアドバイスをもらった。緊張でこわばっていた身体がスルスルと紐解かれて、よかった…とただただそのひとことだった。また学期の終わりにもっとちゃんとした計画を発表しなければならないけれど、ひとまず最初の関門をクリアできて、よかった。

 

11/4

本当にたのしみにしていた1日。Twitterを経由して仲良くなったSさんとのデート日。東京にいたときは何度かこういう出会い方をして親しくなる人もいたんだけど、京都へ越してからはめっきりなくなっていた。それは単にこの地域に住む人とつながっていないということだけでなく、わたし自身が昔ほど匿名の場所のなかに居場所を設けるということがなくなってきたからだと思う。前のアカウントのときから親しくしていた一部の人を除けば、今はあの場所をただの独り言や推しの情報を追うための場所として使うようになってしまった。匿名の世界に居場所を見出していたころは、現実のなかに居場所がなくて、どこにいても話したいことを話せないという状況だった。でも今はきちんと現実で話したいことを話せる大切な人が増えたから、かつてのような使い方をしなくなっただけ。だけどやっぱり自分の価値観や好みを知っている人との会話は、多くの前提を共有しながら話を進めることができるから楽だし、安心する。Sさんもそんな一緒にいて安心する人のひとりだ。前から思っていたけれど、会ってからより一層似ている部分が多いなと感じるようになって、世界の捉え方が近い人だと勝手に認識している。だからこそ話すとずーっと話続けてしまう。今回も最初に落ち合ったカフェで3時間ぐらい一気に話してしまって、時計が壊れたのかと思って二度見した。好きなものを共有できたり、不安を打ち明けられたり、いっしょにおいしいねって話せたり、そんな安心安全最高な関係性。これからお互いに変化していく部分があっても、その変化を受け入れながら、長く長く、できるだけ長くこの関係性を大切にしていきたい。

 

11/7 

午前中に溜まっていた家事を済ませて、午後からは大学時代の友だちTちゃんとzoomをした。夏ぶりに話したから3ヶ月ぶりくらい?大学生のとき、あのタイミングだから仲良くなれたのかもしれないけど、最後の年は大学に通えなかったから、もっと早く出会ってふたりでいろんなところへ行きたかったなと今でも思う。Tちゃんもそうだけど、別の友だちも含め、わたしがとても大切に思っている人たちが悉く「就活」というシステムに疲弊し、はじきだされてしまう様子を見ていると、体の底から強い怒りが湧いてくる。こんなにもすばらしい人たちがどうしてこんなにも傷ついたり、焦ったり、悲しんだりしないといけないんだろう。すぐ近くにいたときだったら、外へ連れ出して話を聞くくらいはできたかもしれない。でもかのじょたちの目の色がすこしずつ変わっていく様子を目の当たりにしたとき、こんなことをした社会のシステムや「通念」をぶん殴りたくなるし、結局のところ話を聞いたり見守ることしかできない自分の無力さにも腹が立つ。そしてそれが決して他人事ではないということにも身震いする。自分を偽り、売り出さないといけないことにも、何かの「役に立つ」ということを求められることにも、何もしていなくても自分の存在には金がかかるということにも、心底うんざりする。自分の行く末も皆目見当もつかないけど、かのじょたちがこれ以上搾取されずに涙を流す日がすこしでも減るようにと願うことが今のわたしにできる精一杯のことだ。何があってもなくても、手を差し伸べ握りしめることだけは忘れずに。

 

11/9

授業の後、むーちゃんとキャッチアップ。とはいえ、1週間しか間は空いていないのだが。この日はやっと(やっと!)Podcastの収録をした。収録といってもいつも通りの雑談なんだけどね。自己紹介がメインだったんだけど、まぁいつも通り脱線しまくりでしたね。でもむーちゃんと話すといつも話したいことが次から次へと出てきて、どんどん話が枝分かれしていく。プロの話し手からすれば、こんな収拾のつかない話をパブリックな場に出してしまうことに批判があるかもしれないけど、まとまらないことをまとまらないままに話すことがわたしたちの意図していることのひとつだと思う。きれいにまとめることは聞き手にとってはわかりやすく、理解しやすいものだと思うけど、わたしたちは整理できないことを、結論の出ないことを、わかりにくいことを、決してわかりやすくしない。聴いてくれた誰かがまたそれぞれにいろんなことを思って、考えて、それをまた別の人との会話のきっかけにしてくれたらいい。…と、こんなこと言ってるけど、編集はこれから(11/11時点)なので、この脱線に続く脱線の対話がいつ誰に届くのかはまだわからないけど。そういえばむーちゃんが話のなかでわたしの文章をめちゃくちゃに褒めてくれたのがほんとうに嬉しかった。文章を褒められるのがいちばん嬉しい。わたしはわたしの文が嫌いと言ったけど、書くという行為自体は昔から好きだ。いずれ自分の書いたものに自信を持てるようになるのかわからないけど、書きながら考える、考えながら書くという行為はずっとやめずにいたい。

 

11/10

久しぶりに変な時間に目が覚めた。3:45。足腰が痛くて(おばあちゃん?)いろいろ体勢に変えてみたけれど痛いまんま。それどころか、胃も痛いしなんとなく吐き気もあって、体調を崩したのだろうかと心配になった。朝になっても体調が悪ければ病院行く?ていうか1人で行ける?まだこっちで病院行ったことないけどどこに行く?帰りも1人で帰ってこれる?そんなことばかりを考えながらいつのまにか眠っていた。8時過ぎに目が覚めた。スッキリ、とまではいかないけど、普通に動けたのでいつも通り1日を始めた。ひとり暮らしの体調不良は本当に不安だし、とくに京都ではまだそういうときに頼れる人がいないので絶対に絶対に体調を崩したくない…。でもいつ体調を壊すかわからないし、病院くらいは近場で調べておかないとなと思った。毎週水曜日はゼミの日。今週は先輩Mさんが選んだよしもとばなななんくるない』のなかからひとつ短編を選んで皆で読んだ。いろんな意味で議論の多くできる題材だった。議論の中でMさんが「昔は『この小説は美しいな』『この小説は面白い』と純粋に思うことができたのに、だんだんと『これは何を意味しているんだろう』『この設定はどう解釈するんだろう』とか、なんでも意味づけしたり解釈したりするような読み方しかできなくなってしまった」というようなことを言っていて、たしかになぁって思った。わたしも小説、漫画、映画、ドラマ、何をとっても物語としての面白さよりも、そこでの誰かの表象のされ方や場の設定のされ方、セリフ、メッセージ性、役者の発言…そういうものを本当によくチェックするようになってしまった。それ自体は別に悪くないし、やっぱり誰かを傷つける作品や無配慮の作品は好きになれないなと思うけど、それが先行してしまって物語そのものには集中できなくなったなとは思う。どういう見方がいいとか悪いとかではなく、単純に自分は変わったんだなと思ったし、失われた感性はきっともう戻ってこないんだなと思った。夕方からは先輩Sちゃんの報告。わたしは毎回かのじょの報告をたのしみにしている。なぜなら、もう、ほんとうに、文章も言葉選びも考え方も最高だから(語彙力乏しい)。かのじょにはいつだって自信を持っていてほしいし、その書き方で論文を書いてほしい。いつもかのじょの言葉には余白があって、簡単には二分できないものが存在できる空間がちゃんとある。それが本当によくて、思わずLINEでも、対面でも絶賛しまくってしまった。こういう場面で「ファン」という言葉を使うのが適切かはわからないけど、わたしはかのじょの研究の大ファンだ。書き切るのは本当に大変だと思うけど、修論を読むのをたのしみにしている。

 

11/11

少し前はめちゃくちゃ早起きできていたのに、ここ数日はまたグッと寒くなってきていることもあってなかなかベッドから起き上がれなくなっている。いかんいかん。午前中は洗濯を済ませて、キッチンを掃除して、お昼頃には四条のカメラ屋さんに頼んでいたフィルムの現像を取りに行った。夏の間に撮った写真で、大好きな3匹をたくさん写した、はずだったのだけど、ひさしぶりに失敗していた。もともとは72枚撮れていたはずなのに、出来上がったのは44枚だけだった。半数近くの写真は永久に消えてしまった。悲しい。ハナと海で遊んだ写真もあったはずなのに。こういうミスはフィルムならではであり、このドキドキ感が楽しくもあるのだけど、今回のように失敗してしまうと結構ショックを受ける。思い出がなくなってしまった。なんとなくカメラの不具合には気づいていて、それでもなんとか使えていたから強行使用していたけど、やっぱりダメだったみたい。もともと中古で安く買ったカメラだし、仕方ないかなという気もしている。これを機に新しいフィルムカメラを追加するのもありかな。まぁすぐには買えないけども。カメラ屋さんのあとは、前から行ってみたかった新しいカフェへ行ってみた。あまり長居はできなかったけど、光が美しく差し込む店で、いい空間だった。静かで居心地がよい。わたしはこういう店が好きだ。でも、こういうさらっとしたセンスのよさが光る店はすぐに人気店になってしまって、なかなかゆっくりと滞在することができなくなってしまう。長く続いてほしいという思いと、有名にはなりすぎないでほしいという複雑な思いが入り混じる。店ではコーヒーを飲みながら『エレノア・オリファントは今日も元気です』を読んでいた(小説を読むのいつぶり!?というくらいに久しぶりだ…)。ちょうどこの間むーちゃんと話していたオリヴィア・ラング『The Lonely City』の引用をもう一度じっくり噛み締めながら読んでいたのだけど、やっぱりすごくいい文章だと思った。英語でしか読めないけど、年末あたりにでも注文して読んでみようかと思ったり。

深い孤独を覚えるほど、人はその体験を終わらせたいと願うものだ。 でも、そういう体験は単なる意志の力によっても、あるいは、別の何かを得ることによっても終わらせることができない。終わらせられるのは、誰かと親密な関係を築くことによってのみだ。とはいえ、言うは易く、行うは難し。特に、喪失や追放、あるいは偏見によって孤独を覚えている人はなおさらだろう。他人とかかわりたい、という強い憧れの気持ちと同じくらい、他人に対して強烈な恐怖や不信を抱えているのだから。孤独を募らせるにつれ、人は社会にうまく適応できなくなっていく。そういう人の周囲には、カビや水垢のようにどんどん孤独が増殖し、本人がいかに人との接触を望んでも、周囲との交流を妨げることになる。孤独とは徐々に増加し、拡大し、はびこってしまうものだ。ひとたびとらわれたら、はねのけるのは決して容易ではない。