2022/03 ときどき週報

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3/1

2月末から始めた同期たちとの読書会、2回目。だいたい一度に120ページくらいずつ範囲を決めて、1冊を3回で読み終えようという計画で進めている。せっかくの春休みだから、普段学期中は腰を据えて読むことができていない本(でも読む必要があると考えている本)を読もうと言って始めた会だった。3人で進めているのだけど、それぞれに研究手法も地域も分野も異なっていたから(大枠で言えば人文社会科学だから共通項はあれども)個別具体的な文献を扱うことはせずに、全員にとって利する文献を選ぼうということになった。いくつか候補はあがっていたけど、最終的に『想像の共同体』(以下IC)を扱うことになった。何度も有名な箇所の引用は目にしているし、大まかな主張も知っているし、それに対する批判も読んだことはある。意外と内容をなんとなく知っていても読んだことない有名な文献ってたくさんある。ICもそんな本の1冊だ。これに決定した頃にはまだウクライナ情勢が現在のようにはなっていなくて、読みながら、こんな形で現実とリンクするのは皮肉だなと思った。前回の範囲(つまり最初から1/3程度)は全体での主張をほぼすべてカバーしていたような気がして、ところどころおもしろく読めていたけど、今回の範囲はすこし中弛みの印象。ナショナリズム研究の古典といって差し支えないと思うけど、古典だからこそなのか、批判すべき点は多くあるなと思いながら読んだ。3人の読書会はなかなかおもしろい。

 

 

 

3/2

午後から企業の説明会を聞いた。情報が解禁されたので、いくつか(とりあえず)チェックしていた企業の採用フローを見る。就活というもの自体が嫌すぎたのと、ほんとうにこれでいいのかという気持ちと、研究への未練とで、やらないとという気持ちがなかったわけではないけど就活ですべきことというか、考えておくべきことをほとんどまともには考えてこなかった。だからこの段階になって各企業がESで書かせる内容や、求める「人材」像を知って、「はぁ?むりなんだけど…」というお気持ちになってしまい、カリカリしてしまってすこし母に当たってしまった。就活をしないといけないことはわかってるのに、こういうことはしたくない、本当はこんなことができればいいのにという話をしていたら、母は「本当は大学院に残りたいんだね。後悔しないようによく考えなさい」と言われた。親にああしろこうしろと言われないことはありがたい反面、自分で完全に決めてそれを説明しなければならないということ、そこには自分自身に対する大きな責任が伴う。何をすれば後悔しないのか。「やってみたらやっぱ違うなと思うことも、やってみたら案外楽しいなと思うこともあるはずだよ」と言われる。母の同年代の頃の話を聞きながら、やっぱり時代が大きく違うんだなということを感じた。なんでわたしはこんなにも失敗が許されないと思ってしまうのか。なんで後悔したらいけないと思うのか。どうしてやりたいことよりも生きのびれそうなことばかりを優先してしまうのか。すべてが時代のせいだとは思わないけど、時代や今の社会状況が無関係だとは思えない。焦って付け焼き刃で進めてもうまくいかないよなと思い直して、少し就活の情報から離れることにした。本当は焦るべき時期だろうけど、どうしようもない。

夕方からはひさしぶりのむーちゃんとの対話兼収録。今までテーマを決めて話すということをほとんどしてこなかったけど、今回は事前に決めたテーマに沿って概ね話を進めた。いつだってむーちゃんと話す時間はヒーリングだ。あまりにも悲観的なわたしをいつも励ましてくれて、自信をもってほしいと言ってくれる。ありがたい。すこしでも自分のことを嫌わないようにしていたい。

 

 

3/3

はなのシャンプー日だった。なかなかシャンプーのタイミングで会えることがないから、今回はわたしが送迎を担当した。はやいうちに免許を取っておいてよかったと、折々で感じている。はなを車に載せるときは後部座席に専用シートを敷いて、その上に乗ってもらっている。いつも座席の上じゃなくて下に乗ろうとしてしまうから、てっきり高すぎて登れないのかと思っていたのだけど、今日は初めて自分でジャンプして乗ってくれた。「すごいじゃーん!」って褒めまくったけど、後でよくよく考えてみたら、これだけ筋肉ムキムキマンなんだから、そりゃ自分で登れるよなと冷静になった。今までが甘えてただけだったみたい。いつもお店に預けたその瞬間は「行かないでー!」って泣いてるけど、姿が見えなくなると諦めておとなしく洗わせるみたい。迎えにいくときも会計をしていてわたしの姿や声を察知すると大騒ぎ。緊張して疲れただろうけど、シャンプー後のふわふわまっしろはなぽんは史上最強にかわいい(いつだってかわいいことには変わりないけど、最上級のさらに上をいくという意味で)。身体中を撫でて抱きしめた。いとおしすぎるよ、このいきものは。

 

 

3/5

今日は誕生日だった。年を重ねるにつれて、誕生日を祝うという行為について考えるようになった。自分の生を肯定できないということが祝福という行為について考えさせるのかもしれない。とはいえ、自分にとってほんとうに大事な人たちが1年に一度、自分のことを思い出して祈りを送ってくれるこの特別な日は、むずがゆくなるようなありがたさでいっぱいになる。誕生日を迎えることがハッピーとまではいかなくても、誕生日のたびに生きてしまったという事実の重みを感じて苦しくなるだけの自分ではもうない、もらったものをありがたいと思えるくらいには成長した。学部のときの大事な友人が今年も贈り物をしてくれた。去年と同様、手紙を添えて。プレゼントももちろんありがたいけど、手紙がほんとうにうれしくて。去年の手紙もやさしくて、ずっと手元に取っておいてある。今年も文末に「私たちはもう十分にやっているから、きっと大丈夫だと信じよう」と記してくれてあった。そうだよね。ダメだ、ダメだって思い続けるのは苦しい。私たちは十分にやっているし、元気じゃなくても生きのびている。それだけでいいじゃないか。

 

 

3/6

母が『ミステリと言う勿れ』(ドラマ)にハマっているらしい。わたしが好きそうだからって教えてくれたんだけど、実は漫画にどハマりして最新刊まで買っている。ドラマは家にテレビがないから見てなかったんだけど、母と最新話まで配信で見た。原作とは若干エピソードが変わっていたり抜けていたり、設定も違ってたりして、すこしがっかりはしたけど、あまり原作と比べて観るのもつまらないよねと思って、ドラマはドラマとして見ている。それにしても、菅田くんってどんな髪型でも似合うんだね…。ハマり役だと思うわ。

 

 

 

3/7

兄が病院を探し、病院へも付き添った日の話を聞いた。今まで関与しなかった兄が現状のあまりの酷さを目の当たりにして、いろいろと思うところもあったらしく、かなり動いてくれた。実際の入院先から、相談先まで見つけ出して、現地まで一緒に行ってくれたらしい。母はもうひとりでは無理だった、お兄ちゃんがいてくれてよかったと言っていた。わたしに対しては、実際に一緒に動くということはしなくても、この件から逃れたくなるときにたわいのない話ができる相手がいたからよかったなと思ってるし、異なる面からありがたかったよと言ってくれたけど、わたしは本当は助けてほしかったんだろうと思った。でも、どうしてもできなかった。わたしも辛かった。頭の中でなんでわたしがこんなことに?という問いと、なんでこんな冷たくいられるんだろうという非難とが絡まり合っていた。わたしはもう散々辛い目にあった、今回くらいは抜けてもいいじゃないかとも。母の方がもっとしんどいじゃんとも思ったけど、でも母は関わりを断とうと思えば断てるじゃないかとも思ってしまって、もう自分の感情が自分では歯止めがきかなかった。今も自分の行動はよくなかったのかもしれないという思いがある。

母と兄と3人でソーシャルワーカーへ相談しに行った日のことを聞いた。本人にも現状を把握してもらうという目的で、本人がいる目の前で確認作業が行われたらしい。具体的な質問項目はうろ覚えだけど、当人の言動が子供のふるまいや精神に影響を与えたかというような質問に対して、兄は影響しないと答えたらしい。母はそれに驚いたらしく、兄とわたしの7年の差異は結構大きいんだなと思ったと話してくれた。母はわたしはそんなことないだろうと思って、「大きい音とか声がダメになったみたいです」と答えてくれたらしい(それは本当にそう)けど、当人はそんなことないだろうと言っていたらしい。自分は自分なりに愛情を注いできたんだから、と。あまりにも各々で見てきた世界が違っていたことに驚いた。愛は呪いにも凶器にもなりうるということを、わたしは成長過程でいやというほどに感じてきたけど、この人にとっては愛は愛にしかならないのかもしれない。認識があまりにも違っている。今思い返してみれば、症状のひどさは兄が家を出てから増していったから、兄はひどい状態を体感として理解していないのかもしれない。家が家として機能しないということがわからないのだろう。それはすこし羨ましくもあり、だからこそ今の兄がいるのかもしれないと納得もした。ひとまず入院になって安心したけど、これで何かが変わるとも思えないし楽観視しないでおこうと思う。

 

3/8

読書会、最終日。前回の範囲よりはおもしろい箇所がいくつかあった。訳者あとがきで意外なことも知って、そんなことアリなんだ〜と思った。読みながら確認できた点、おかしくない?と思う点、もやもやが残る点、いろいろあったけど、それでも読めてよかったなと思った。読書会メンバーに他の文献もpdfでシェアしてもらえて、なんだかラッキーだった。

午後からは県立図書館へ行って予約していた図書を借りた。以前は館内全体が県立だったのに、去年くらいから市立図書館と合併したらしく、減ったコーナーも利用者層も変わってきて残念。県立のみのときは学術書が豊富で、新刊コーナーを見るのもたのしみだったのに、半分以上の開架図書が書庫行きになってしまったみたい。図書館はやっぱり開架でこそ意味があると思っているから、本当に残念。帰りは久しぶりに寄ったカフェでコーヒーをテイクアウトした。お店のお姉さんが覚えてくれていたらしく、うれしい。こんなちょっとしたことでも本当にうれしくなるなぁ。海岸沿いルートで帰ってきたから、景色もよく、走りやすかった。

 

 

3/9

いつも通りはなの散歩へ行った。ここ数日はぎんちゃん(はなの唯一の犬友)と行き違いで会えていなくて、今日こそは会えるといいねって話していた。ぎんちゃんの家近くになったら急にはなが振り向いて不安そうな顔をした。ちょっとよくわからなかったけど、大丈夫だよって励ましてみた。玄関に着くとぎんちゃんのリードが見えて、飛んできてくれた。おばさんもぎんちゃんの声に気づいたらしく、外まで出てきてくれて、いつも通り立ち話。最近買ったというぎんちゃん用の7歳仕様のドッグフードについて、気に入らずにまったく食べないという話を聞いた。ぎんちゃん以外の近所の犬さんたちもみんなそんなかんじらしい。見た目はそんなに変わらないんだけど、すこし食感がやわらかくなっているらしく、おばさん曰く、「おれはまだそんな歳とっちゃいないやい!」という訴えなんじゃないかと。笑った。帰り際、「ぎんが食べなくて余っちゃってるからはなちゃん食べてみない?」と言って、一袋7歳仕様のドッグフードをもらった。はなはもう10歳だからね。ぎんちゃん家からすこし離れたところで、はなが袋の音が気になってそわそわし出したので、一粒あげてみた。口に入れてそのままぺって出した。笑った。

 

 

3/10

朝から怖い夢を見た。暴力を振るわれて本気で逃げているのに、誰もわたしの話を信じてくれないという夢。かなしくてこわかった。実際に起きたらこんな気持ちになるのだろうかと想像する。

最近少しずつ見ている『未成年裁判』、残すところあと2話になった。法にできることはたくさんあるけど、限界点もあるのだということを示してくれたエピソードだった。必ずしも法は被害者だけの味方にはならないということは、かなしいけど真実なんだろう。法によって裁かれることもあるけど、法があっても裁きようがない、責任の取りようがないことはこの世界にごまんとある。何も起きていないときに戻ることができないという時間の法則は、残酷だ。8話の、「今この瞬間、自分が何人の犠牲の上に存在しているか」というセリフ、自分にもずしっと重みのある言葉だった。わたしは誰の犠牲の上で平凡な毎日を送っているのだろうか。

今日は夜、PTD on stageを母と見ることになった。誰かと見るのはオンラインでもオフラインでも初めてだから、一緒に楽しめるといいな。