2022夏の読みもの、その1

ひさしぶりに日記ではなく、ブログっぽいこと書いてみようかしらんという試み。8月の2週間弱の読みもの記録です。その2があるかどうかは気分次第です。公開するものには自分の研究に関するものは含めてません。これはずっと一貫していて、いろいろな理由があるのだけど、とりあえず現状の大きな理由としては当面研究の道を進んでみることにしたので、研究のことは論文という形で公表したいからです。自分の研究について、インターネットでもその断片は推し量れるかもしれませんが、ずっと明言は避けてるのでわからないと思います。とりあえず、人文学徒と言っておくのがいいかもしれませんね。とはいえ、研究とそれ以外とを明確に分けられるものではないので、好きで読んでいる本も多かれ少なかれ研究の内容や姿勢に影響しているでしょうし、逆に研究が趣味に影響を与えているかもしれません。研究をすること、学ぶこと、生きること、たのしむこと、かなしむこと。それぞれがわたしのなかでははっきりと分かれているわけではないので。というか、そんな器用なことはできません。

 

 

【本編】

森崎和江『まっくら—女坑夫からの聞き書き

森崎和江は1959年から『サークル村』に「スラをひく女たち」というタイトルで元鉱夫の女性たちの聞き書きを連載した。その連載が大幅な加筆修正をされたうえで、1961年に理論社から『まっくら—女坑夫からの聞き書き』として出版された。その後、1970年に現代思潮社より、1977年に三一書房より再版された。本書は三一書房版を底本として岩波が文庫化したもの(「解説」を参照)。

ようやく、ようやくでした!岩波から文庫化されると聞いてとてもうれしくて、即買ったはいいものの、例の如く積ん読になってもらっていた。森崎の「聞く」姿勢や「聞き方」を感じ取りながら、語りそのものだけでなく、語らせる/語らせない状況をも書き留めているところが印象的だったな。

常に死と隣り合わせの炭鉱労働。命懸けの仕事をしてなんとか生活費を稼ぎつつ、女性たちは家に帰った後も炊事、洗濯、子どもの世話など、休む間もなく仕事をしつづける。想像するだけでいかに大変だっただろう…と、言葉をなくす。ただここでの労働は女性たちにとって、男性と同様の(あるいはそれ以上の)労働をしてきたという誇りにもなっている。この労働を美化することはできないけど、同時に「かわいそう」な女性たちとしてまなざすことも的外れだなと思う。

1919年の国際労働条約の締結によって炭鉱にも女性労働者保護の動きが波及し、1928年には女性の坑内労働が禁止された。戦後においても性分業がいち早く炭鉱では定着したため、炭鉱で働いていた女性たちの記憶は忘却されていった。詳しい時代状況は解説に詳しいので読んでみてほしいのだけど(解説もとてもよかった!解説から読み始めてもいいかもしれない)、こういう時代状況のなか、働いてきた女性たちの矜持は居場所を失ってしまったのかもしれないなと想像する。

わたしには鉱夫だった女性たちの語り口調がハンパじゃなく読みにくくて(きっと耳で聞いていたら尚更わからなかったかもしれない)、この2週間弱で読んだもののなかでもっとも時間も体力も要する読書体験だった。以前関西出身の友だちととある小説について話していたときに、「関西弁」(と便宜上雑な括りをします)で書かれている小説は読みやすいし親しみを抱く反面、いわゆる「標準語」で書かれている作品には距離を感じるという話があった。わたしは関東出身だからか、たいていの作品にそういう感触を持ったことがなかった。強いて言うなら、時代の影響で読みにくさを感じる作品があるくらい?あとは会話がほぼ「関西弁」の作品は、そういうものとして読んでいるというのと、比較的馴染みのある言葉だからか違和感を感じなかったのかもしれない。ただ本書の場合には、おそらく地域的な要因も、時代の要因も、そして何より書き言葉を持たなかった人々の語りということが大きいのか、すごく読み難かった。文字が自分のなかのボキャブラリーと結びついていないのが原因なんだろうか。

 

 

高野ひと深ジーンブライド(2)』

待ってました!!!『ジーンブライド』2巻!!!(性暴力被害の描写があるので、読まれる方は留意してください)

前回の終わり方がカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を彷彿させるような世界観で、この先どうなるんだろう〜とめちゃくちゃ気になってた。まだ世界観についてはわからないことが多いのだけど、「取るに足らない」とされてしまう怒り、違和感、恐怖が丁寧に描かれている。「こんなこと」とされる事柄のために割かなければならない労力の多さよ。

共感できるかどうかやメッセージ性の強さによってのみ作品の評価が決まってしまうことには結構違和感があるのだけど、この作品はフィクションとしての面白さもめちゃくちゃある!ある種の突飛な世界の設定をすることによって逆説的にわたしたちの日常に転がっている生きづらさや暴力が際立っているようにも思える。なにより、高野ひと深さんの絵がうますぎるのよ…美しすぎる……。ハッとさせる表情の巧さよ。3巻もたのしみだなぁ。

 

 

李琴峰『ポラリスが降り注ぐ夜』

李琴峰さんの作品を読むのは本書が2作目。はじめて読んだのは『彼岸花が咲く島』だったんだけど、正直あまりおもしろいと思えなかった。言語の設定はおもしろかったけど、伝えたい主張が最初から決まっているようで、しかもその主張の主語がでかくて、なんだか後半は少し冷めてしまった。でも『彼岸花が咲く島』をすすめてくれた人が『ポラリスが降り注ぐ夜』を最初に読んで李琴峰さんが好きになったと話していたので、読んでみたいなと思っていたのだ。本書はいい意味で見事に期待を裏切られたというか、ここ最近読んだ小説で最も良かった小説になった。ほんとうにほんとうに、すごーく大切な作品になった。ジェンダーセクシュアリティ、国籍、民族、年齢など、さまざまな背景をもった人が新宿二丁目レズビアンバー「ポラリス」で過ごす一夜の物語。社会のなかで“LGBTQ”として一括りにされて語られてしまう人々は、当たり前だけどみんな別々の人間で別々の想いと背景を抱えている。個人的に印象に残ったのは、カテゴライズに関する描写だ。

自分が男に恋愛感情を抱くことは恐らくないだろうと怡君は考えているが、かといって男と女の境界線を描けと言われたら、どこにその線を引けばいいか怡君にもよく分からない。境界線が描けないところに無理やりその線を入れるという行為は、必ず誰かを引き裂く結果になるので、怡君にはそれがどうしても暴力的に思われた。
(「太陽花たちの旅」より)

 

「カテゴライズされることで自分自身の存在に対する安心感が得られるのなら、してもいいんじゃないかな?だって、言葉がないのはあまりにも心細いんだもの」と静かに言った。「同性愛者に両性愛者、そしてトランスジェンダー。先人は大変な苦労をしてやって自分に名前をつけることに成功した。名前というのは、自分は一人じゃないってことの証拠なの。そして名前がないのは、生まれていない、存在しないも同然よ」

(「蝶々や鳥になれるわけでも」より)

 

「お姉さんは、この中のどれですか?」と、男は「性の在り方」のページを指で示しながら、そう訊いた。香凜は少しばかり迷ったが、ややあってゆっくりと首を振った。「分からないし、決めたくもないんです」と香凜が言った。「決めたくないって、クェスチョニングということですか?」と男が訊いた。「そうじゃないんです」と香凜が言った。「敢えて言葉で自分を定義する必要を感じません。昔は男と付き合っていたし、今は女と付き合っているけど、自分をバイセクシュアルだとは思っていません。かといって完全なレズビアンでもない気がします。どの言葉を使っても、自分自身を部分的に削り取ってしまうような気がするんです」

(「深い縦穴」より)

きっとどれもただしくて、それぞれに優劣はない。言葉があることで自分の存在を認められることもあるし、同時に線引きはどこまでいっても何かをとりこぼす。そういう曖昧さや揺らぎの可能性が小説の中で確保されていて、なおかつどの立場も大切に描かれていて、すごく安心ができた。折に触れて何度でも読み返していきたい作品。

 

 

村田沙耶香『信仰』

めちゃくちゃ不穏な小説。近年はずっと韓国文学ばかり読んでいたこともあって、日本の作家をあまり読んでこなかった。村田沙耶香作品も『コンビニ人間』ぶり。ほかにも『生命式』なんかも気になって購入してあるけど、まだ積ん読。『信仰』は表題作がいちばん脳裏に焼き付いて、自分の価値観を揺らがせて、後味の悪さ(いい意味で)を残したな。もともとポッドキャストで読書会をやるために読んだものなので、感想はよかったらポッドキャスト聞いてください。近々アップロードされる予定です。

(追記:9/5 遅ればせながらアップロードされました)

 

 

高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』

『信仰』につづいて、またまた不穏な小説。文学賞って正直あまり気にしたことがなかったんだけど、今回はいろいろな意味で話題になっていて気になっていたので、まずは本作を購入して読んでみた。状況描写はうまいなぁと感じた。芦川さんは実際に発している言葉は多くないのに、それに意味を与えていく(あるいは誤解していく)状況や心理描写がすごいなって。ただ正直、わたしの好みの作風ではなかったかな……。芥川賞に選ばれるっていうのはどういう要素なんだろう(まったくの門外漢なのでわからん)。基本的に賞に選ばれたから読んでみるという体験がとても少ないから的外れな意見かもしれないけど、受賞しなかった候補作とか、受賞作の著者の他の作品とかの方が個人的にはおもしろいと思えることが多いので、候補作を次に読んでみようかなと検討中。気になっているのは山下紘加『あくてえ』と年森瑛『N /A』。

 

 

関口涼子ベイルート961時間(とそれに伴う321皿の料理)』

本屋でひとめぼれして購入した。

著者はフランス在住の詩人、翻訳家、作家の関口涼子ベイルート国際作家協会の招聘に応じてベイルートを訪ねた著者が、そこで出会った人や料理を通じてベイルートという街について綴ったエッセイである。もともとフランス語で出版されたものみたいだけど、本人の手によって翻訳されて日本語でも今年の春に出版された。タイトルの961時間は著者がベイルートに滞在していた時間(2018年4月6日〜5月15日)。著者曰く、本書は「二重の意味で前夜についての本になってしまった」という。ひとつは著者がベイルート滞在の翌年、2019年10月17日に始まった反政府運動*1、もうひとつは2020年8月4日のベイルート港爆発事故。思いがけず「カタストロフ」の「前夜」となってしまった本書に綴られるのは、破壊されてしまう前の街の美しさや料理とそこに纏う歴史や文化の奥深さ、生活や暴力の跡、出会う人々の残す言葉とその残響。

料理本とはどんな性質の本だろうか。それは単に料理を作る手順を学ぶマニュアルではない。それは、ある時代の様々な味が凝縮したものであり、家族や、身近な人々の思い出が詰まった本でもある。その料理を作ることで、思い出がマッチ売りの少女の擦るマッチの炎の向こうに、わずかの間立ち上がる。それはある時代の五感のアーカイブだ。だからこそ、料理本は、読み方を知っている人たちにとっては、時に、この上ない文学作品にもなりうるのだ。

(「ベイルート961時間(とそれに伴う321皿の料理)」)

 

わたしは、日本語の「口にする」という表現を思う。何かを口に入れるという意味と、話すという両方の意味を持っているこの表現を。わたしは料理の名前を発語し、その料理によって養われる。料理はわたしの口に入り、その名は同じ口から発される。まるで、くちばしに挟んで運んできた食べ物を雛鳥にやる鳥のようだ。大人になってからも「母語」を身につけることができるとしたら、その方法でしかありえない。具体的な世界と、唇と舌に触れる単語によって。

(「107『口にする』」)

 

タブーは、あるカタストロフが残酷すぎる時に生まれるのではない。その逆で、タブーや沈黙が生まれるからこそ、カタストロフは耐え難いものとなるのだ。沈黙は生に困難をもたらし、それはある世代から次の世代へと受け継がれることがある。そして、その悲劇に関わりのない者たちの忘却によりその沈黙はもっと深くなる。 そのカタストロフの性質、重みにかかわらず、沈黙はあらゆるカタストロフの定義そのものであり得る。

(「169 沈黙」)

 

排除の領域を持つという意味では、わたしたちもレバノン人と何一つ変わらない。料理においては同化が働く。日本では、男性たちは、外国人や女性の手によって作られた料理を日本の「正統的」伝統料理と認めたがらず、フランス人は、クスクスは喜んで食べるものの、アルジェリア料理をガストロノミーの枠に受け入れようとはしない。 おそらく、どの料理文化もこうした排除の領域を持っている。その輪郭を把握しておく必要があるのだ。

(「212 排除の領域」)

 

 

アレックス・マリー『ジョルジョ・アガンベン(シリーズ現代思想ガイドブック)』

院生(M)の間に読まなければ!と思っている思想家は何名かいるのだけど、アガンベンもそのひとり。読まなければと思う人ほど、話がややこしくて、何度も同じところばかり読んでしまう。読まないとと思っている思想家の思想や議論はざっくりとは知っているのだけど、この状態はいったい何なんだろう。論文で何度も出てきたりするからかな。思想は即時的に「わかる!」「理解する!」とはならないものだと思うから、焦りすぎず、ちまちまと読み進めていくつもり。本書はとりあえずの入門書として購入した。が、これだけを読み進めるというより、本人の著作を読み進めながら適宜参照するという使い方の方がベターかもしれん。

 

 

よしながふみ『大奥(8)』

今更ながら追い始めた『大奥』、8巻目。おもしろくてスイスイ読んでしまっている。7巻までは自分で購入して読んでいたけど、先輩が全巻持っているとのことで、少しずつ借りていくことにした。研究室に『大奥』文庫ができている。それにしても、よしながふみ好きだなぁ。

 

 

夏目イサク『花恋つらね(1)』

(5巻まで読了)

試し読みからの購入。すっかりハマって5巻まで一気読み。おもしろいな〜と思いながら読んでいるけど、歌舞伎のような、いわゆる「伝統芸能」と呼ばれる世界の血縁主義は結構キツイものがある。イエの概念めちゃ強…。ただそういう「子孫を残す」という価値観のなかで2人がどういう形でお互いの関係を大切にしていけるのか、今後の展開が気になる。あ、BLです。性描写があるので、苦手な方はおすすめしません。

 

前田勇樹・古波蔵契・秋山道宏『つながる沖縄近現代史—沖縄のいまを考えるための一五章と二十のコラム』

教育現場をはじめ、沖縄は歴史に対する関心が高い地域として知られているが、歴史研究者は果たしてそうしたニーズに十分に応えきれていると言えるだろうか。自分自身を振り返ってみても、やや心もとない。現在の沖縄に直結する「近現代」という時代を通観でき、かつ、誰でも手に取れるような「入門書」探しに書店に出かけても、思いのほか見当たらない。こういった問題意識の下、若手研究者が寄り集まってお互いの知恵や知識を出し合い、新しい視点をもった「入門書」としてまとめたのが、本書『つながる沖縄近現代史』である。

(「はじめに 近くて遠い、近現代史へのミチシルベ」より)

意外と「入門書」って探すのが難しいよなと思う。わたしは割とあるトピックの入門書として新書を選ぶことが多いんだけど、本当に門外漢の分野だと新書であっても難しくて、読み通しても入門の入の字にも入れていないような読後感に陥る。もちろん一冊読んで「はい、わかりました」なんて状態になるのはありえないし、学べば学ぶほどにわからなくなるというのが学びだと思うんだけど、そうはいっても物事のつながりがまったく理解できないという意味の「わからない」と、「なぜ」「どうして」という問いが次々に駆け巡る「わからない」は同じ「わからない」でも全然違う種類の「わからない」だと思う。前者の「わからない」の場合には本当にわかっていない。特に歴史の場合、つながり(時間的なつながり、地域的なつながり、概念的なつながり等)を意識できるかどうかが結構重要だと個人的には思っているので、ある程度通史的な流れをおさえることが必要。そうなるとますます入門書探しが難しくなる。通史と聞いてまず思い浮かぶのは教科書だけど、教科書って味気ないし、ただの名称の羅列ってかんじがして読みものとしておもしろくない。通史と言ってもただ何年に何がありましたっていうことが知りたいわけじゃない。じゃあ何を読めばいいのか。本書は現代の沖縄社会に向き合ううえで必須と思われるテーマについて時代の流れに沿って学べるように設計されている。主に近現代沖縄(「廃琉置県処分(琉球処分)」〜現在)の歴史が扱われているけど、第1章はその前史としてペリー来航から始まる。わたしもこのあたりの時代については知らなかったり知識が曖昧なところがあって、学びの収穫が多かった。あと、おもしろいのはところどころ「フラグ」(ネット用語としての「フラグ」=伏線として立っている場合もある)が立っていて、別の章(時代)とのつながりが意識できて、歴史は一方通行ではなく相互に関係しあっているのだということがよくわかる。良書だったので、ぜひ!

 


 

【記事編】

李琴峰・村田沙耶香「マイノリティのリアルを誠実に書くということ」

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ポラリスが降り注ぐ夜』がすごーくよかったので、作品に関連する記事を漁る。

 

わたしもマジョリティが喜ぶマイノリティ像、もっと厳しく言うと感動ポルノ的なマイノリティの話はしたくないというのがあって、マイノリティが差別に負けず頑張って幸せを掴むような話にはしたくなかった。「日暮れ」の「ゆー」はそういうマイノリティ像の正反対の人物像ですね。もちろん、誰だって自分の人生なので、自分が努力しないといけないんですけど、でも必ずしも努力できないひともいる。自意識は高くても自分に自信がないので、二丁目に行っても、積極的に場にとけこめなくて苦しい思いをするひともいますし、むしろそっちのほうが多いくらいなので、そういうひとたちのことも書かなければいけないと思ったんです。世の中で生きているセクシュアルマイノリティのリアリティを見ていると、マジョリティがもてはやすような、あるいは多様性やLGBTという言葉で括られるようなひとは、実はそんなにいないんじゃないかと思うんです。

 

李琴峰・村田沙耶香「個人のための言葉、あるいは小説家の使命」

www.webchikuma.jp

創作物は思想の反映ですし、登場人物の一人一人にも政治や国際情勢といった大きく社会的なものが影響している。そのつながりは捨象してはならないと思います。小説は個を書くものであるのが大前提ですが、その個がいかにして社会と相互関係を持っているかも書かないといけない。結局は「個人的なことは政治的なこと」のような古くさいスローガンに逢着するのかもしれませんが、個を描くのと同時にまわりの事象、コミュニティも描かないといけないと思います。特にセクシュアルマイノリティの場合は、コミュニティが不可視化されてきた歴史があるので、そこは強く意識して『ポラリス』を書きました。

 

 

鈴木みのり「(トランスジェンダー)女性が綴った葛藤『男でもなく女でもなく、社会問題化した“LGBTQ”でもなく、“わたし”として生きる自由を』」

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「同じ」にはなりえない「わたしたち」がいかに手を取り合うことができるのか。インターネット上(だけではないけれど)のトランス排除があまりにもひどくて、シスジェンダーである自分でさえ疲弊してしまう。いくら「多様性」とか「LGBTQ」とか、そういう代名詞だけが一人歩きしたところで現実がそう簡単に生きやすくなるわけではない。むしろ、その代名詞のせいでこぼれ落ちていく個々の声がある。

読みながら思い出した一冊。ぜひ読んでください。

 
 
 
 
 
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湯葉シホ「弱さは個人の問題ではなく、構造上の問題だ。公認心理士、臨床心理士信田さよ子さんと考える“弱さ”のこと」

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評価という暴力。たしかにあるよなぁと思った。厄介なのは他者からの評価だけでなく、自分で自分を評価して過度に卑下してしまうこと。どうやったらこういう癖を手放せるんだろうか。「弱さ」を開示できる場がほしいね。わたしにとってのインターネットは10年くらい前まではそういう場だった。狭い田舎社会の中で誰にも打ち明けられないことを、誰も自分だとは特定できない場で打ち明けることでつながりを持てた人だっていたのだ。今とは全然景色が違う。もしかしたらあの時代でもいわゆる「クソリプ」はあったのかもしれないけど、わたしは見かけたことなかったし、今とは圧倒的に数が違うんじゃないだろうか。

 

 

永井玲衣「重いの」

ohtabookstand.com

重い、重い、わたしの身体。わたしは子どもを産んでいない。まだいないのか、ずっといないのかはわからない。なぜ産んでいないのかは、ここには書かない。現実はいつだって複雑で、絡み合っていて、それをすべて書くことはできない。何もかもを表明することはできない。わたしを見てひとは「自分の人生を楽しんでいるんだね」と言う。わたしは子どもがいないことで「自分の人生を楽しむ」特権を得ているのだろうか? 子どもがいる友だちは、自分の人生を捧げているのだろうか? 子どもを産むひとは、社会に強いられ、愚かな選択をしてしまったのだろうか? 二度と戻らない自分の人生を手放してしまったのだろうか? そんなにも、ものごとは単純で、わかりやすいのだろうか?

 

 

永井玲衣「【むずかしい対話】まあここにいてもいいかな」

www.toyokan.co.jp

だがこの「安全」という言葉にはどうしてもひっかかりを感じてしまう。「safety」という言葉の翻訳は本当に「安全」でいいのだろうか。わたしたちは対話において、コミュニケーションにおいて、「安全」を求めなくてはならないのだろうか。いや、「安全」なコミュニケーションなど、本当にあるのだろうか。「安全」というのは、完璧に守られた箱に入り、誰ひとり傷つくひとがいないようなイメージだ。たしかにわたしたちは「安全」を、喉から手がでるほどに求めているような気もする。傷つきたくない、傷つけたくない。傷ついてほしくない。だが、他者と出会うことはどうしたとしても、傷つくことである。わたしの存在がおびやかされることである。異物に肌をなでられることである。(……)わたしたちはまず言葉を探す。「セーフティ」とカタカナのまま使うひともいれば「安心できる場」というひともいる。セーフティをよりその体温に合わせるように訳するとしたら、たしかに「安心」や「大丈夫」は近いかもしれない。ここには、「安全」のように「傷つきや失敗が一切ない場」よりも「たとえ傷つきがあったり、まちがいや失敗があったとしても大丈夫だと思える」というイメージをひろいあげることができる。

 

「まあ、ここならいてもいいかもな、と思える場」
ふとこんな言葉が出てきた。なぜだか「居場所」とは言いたくなかった。「逃げ場」とも。「安心できる場」とも言いたくなかった。もう少し、場に対する自身のあいまいさを残したいと思った。たとえしんどい思いをしたとしても、何かしらの仕方でそれでも「まあ、いてもいいか」と思えること。

 

永井さんの文章が好きだなぁ。D-Radioもときどき聴いていたけど、もう更新はないんだろうか(全部聴いているわけではないのだけど、もしかしてどこかで今後のこととか話されている?)。

 


 

*1:「あとがき 日本の読者に向けて」によると、この運動は無料アプリケーションWhatsAppに政府が課税しようとしたことに端を発する。移民や亡命者の多いレバノンにおいて自由な通信手段が確保されないことは死活問題である。レバノンの人々から「革命」と呼ばれたこの運動は冬まで続いたものの、新型コロナウイルスの影響による外出禁止などの措置で途中で潰えざるをえなくなった。