「泥濘踏みつけ歩いていけ、嵐の中涙流しながら」

        

 

書きたいことはいくつもあったような気はしていたのに、不特定の誰かに見せる前提のものとなると筆が進まなかった。何度もソーシャルメディア疲れしてきたけど、今は疲れというよりも、顔の見えない誰かに対して言いたことが何もないという感じ。Instagramは相変わらず3匹のためのアルバムと化しているし*1Twitterは特定の人のアップデートを知るために、わざわざその人の名前で検索して見るだけのツールに成り変わった。わたしは紛れもなくインターネットに救われてきた側の人間だけど、それは現実にやりとりをする人間のほとんどがインターネットをそれぞれの日常として受け入れていなかったときのことだ。今は、なんというか、形勢逆転?インターネットもまたひとつの現実であること(当たり前だけど)を前提として議論が進んだり関係性が紡がれたりするようになったから、それはそれで窮屈で居心地が悪くなってきてしまった。10年前とはインターネットのあり方は間違いなく変わったけど、その変化に適応できている人もいるのだから、単に自分が変わったというだけのことなのかもしれない。今はclosedな関係性が最もやすらぐし、これからもこの関係性を離さないでおこうと思っている。

 

  

 

この場所には何も書いていなかったわりに、1ヶ月半ほどは怒涛の日々だった。ひとまず、今のところ、落ちついたと言えるのかもしれない。

まず何よりも、修論が終わりました。口頭試問はこれからだけど、余裕を持って出せたことに関しては少しだけ自分を褒めてあげたい。まあ、厳密に言うならば、余裕を持って出さざるを得なくなっただけのことではあるのだけど。それはともかく。2022年がはじまるとき、修論をちゃんと書き上げることを目標として書き残していた。

 

これはちゃんと達成できましたね。よかった。

これはこれからもずっと自分に言い聞かせたいことではあるけど、今のテーマで今の自分の力量でできることは書けたと思う。一人ひとりの生きてきた過程を安易に容易に要約させない。それを常に頭の片隅に置きながら、論文の中心にさせてもらった人と、気持ちとしては並走しているつもりで黙々と言葉を綴ってきた。研究という営みの持つ暴力性を認識しながらも、自分がこの道を選んだ以上、その厄介さも引き受けたうえで、要約から迂回できるような可能性を示せるように書いたつもりだ。もちろんこれも完璧なんかではないし、批評されるべきだろうとは思う。今後はいったん修論という形で書いたものを形式や文体を変えながら小出しに、できるだけたくさんの場所に公開できるようにがんばっていきたい。終わりもなく正解もない道に進んでしまったけど、迷ったときに立ち返る決意はいつ何時も2022年6月14日にしたい。

 

  

 

わたしにとっては最後になる祖母が亡くなった。論文を早く出さざるを得なかったのもこれが理由だった。かれこれこの1ヶ月はずっと祖母の体調のことで母はずっと慌ただしくしていた。祖母が危ない状況になってから、わたしも自分のこと、祖母とのこと、母のことを考えていた。自分のことというより、自分と祖母の関係性について考えていたと言った方が適切だろう。端的に言ってしまえば、わたしたちの関係性はあまりにも希薄だった。ほんとうはこの後、たくさん祖母についての文章を書いたけれど、それは敢えてここに公開する必要のない文章だなと思い直して、公開しない日記にコピペした。自分が幼さを盾に抱いてしまった感情も、今もなお抱けない感情も、悔いも、それらは自分だけが知っていればいいのだろうし、共有するとしてもそれは安心して話せる人だけでいいのだろうと思う。

葬儀等が終わってひと段落した日の夜、母がぽつりと「今までも頻繁には会えなかったけど、もう二度と会えないのかと思うとやっぱり寂しいね」とつぶやいた。わたしにはその寂しさを理解することはできないけど、想像することはできる。気持ちを共有することは共有するものがない以上むずかしいから、きっと今のわたしにできるのは、ただ傍で耳を傾け、相槌を打ち、同じ時間を過ごすだけだろう。寂しさにフッと心が攫われないように。

 

  

 

孤独の寂しさ噛み砕いて 沸き立つ思いに耳を傾けて
泥濘踏みつけ歩いていけ 嵐の中涙流しながら
翡翠の狼はまた嘆く その身に宿す美しさも知らず
高めの崖を前にほら嘆く 誰かの力借りりゃ楽なのに
もうじき誰か友だちがくるさ 口笛吹きながら夢を見ていた
どこまで行くのか決めてなんかないが ひたすらあなたに会いたいだけ
知らない間に遠くまで来たが 暖かい場所はまだ向こうか
りんごの花咲く春の日まで 心の目印曇らせないように
吹雪に曝され歩いていけ 虚しさ抱え混沌の最中まで
翡翠の狼は絶え間なく 我が身に怒りを向けては歌を歌う
戦え誰にも知られぬまま それで自分を愛せるのならば
かけがえのないものはなんだろな 踵鳴らしながら待ちぼうけだ
消せない記憶と苦しみの中で 終わりが来るのをただ待つだけ
この世で誰より綺麗なあなたに 愛しているよと伝えるまで

翡翠の狼(米津玄師)

 

         

 

自分は何か決定的なものを欠いている欠陥人間であるという感覚が、この1ヶ月の間にリアリティを持って迫ってきた。以前、わたし自身が受け取ってきた「お前は未熟である」というメッセージについて少しだけ書いたことがあるけど*2、思っていた以上にそういう意識は根強いのかもしれないなあと感じた。頭では、人間として持つべき感情リストのような馬鹿げたものは存在しないことも、何が正しくて何が正しくないという基準自体が構築物であることもわかっているのに、実感として「自分はなぜ〇〇と感じれないのだろう」「なぜ〇〇という欲望がない(あるいは限りなく薄い)のか」と思ってしまって、頭のなかの理解を飲み込めずにいる。

 

では同性愛者の分断、同性愛の脱性化、商品化、ゲットー化、深層化する抑圧システムへの加担といった後期資本主義の再取り込みをまぬがれて、[ヘテロ]セクシズムを解体していくにはどうすればよいか。おそらくそのための第一の課題は、まず近代の同性愛「者」差別のメカニズムに絡めとられないようにすることだろう。 同性愛を—先天的なものであれ、後天的なものであれ—個人のセクシュアリティに収斂させる近代の言説を問題視し、セクシュアリティと<個>の神話の癒着を引き離すことである。つまり、同性愛を個人の欲望と、それの発露としての性実践を中心に構造化することをやめる—セクシュアリティによってエロスを解釈することをやめる—ことである。同性愛抑圧に対する系譜学的な考察があきらかにするように、自由競争システムの資本主義は近代的な個人を必要とし、欲望—正確には欲望の制御—によって、<個>を生産し、<個>の自律性を保証してきた。 換言すれば、欲望を個人生活の中心的要素とみなすことによって、欲望の階層秩序とともに<個>の階層秩序も構築してきた。したがって、セクシュアリティにまつわる差別に異議を申し立てるには、セクシュアリティ(性欲望、性実践)を含みつつも、それによって構造化されないエロス—<個>を形作ってきたさまざまな境界を横断するエロス—を主張すべきだろう。その意味で エロスを、<個>に統合される欲望(単数形のdesire)としてではなく、<個>の自律性を攪乱させる偶発的で、流動的な快楽(複数形のplesures)として再定義することは意味をもつ。

竹村和子(2021)『愛について—アイデンティティと欲望の政治学』p. 93

 

理解と実感の乖離はすぐさまにどうこうできるようなものではなく、それは何か理論を取ってつけたように学べば解決する類のものではない。ことあるごとにいつもの悪い癖で自己卑下が止まらなくなってしまうときもある。それでも学ぶことをやめないように意識しているのは、自分に張り付いている幾重ものベールを剥がせるものは剥がせるように、あるいは少なくともそれがベールであると認識できるようにするためである。その意味で、年末から時間をかけて読んでいた竹村さんの文章は、そういう作業をぐんぐん進ませてくれる力のある文章だった。竹村さんの文章は短い論文の形では読んだことがあったけど、理論的背景(特に精神分析の)が不足している分、本は手元にあれど気後れしてしまっていた。でもいざ読んでみたら、何度も繰り返し噛み締めて読みたい、すばらしい文章だった。ずっと自宅で積読になっている『境界を攪乱する—性・生・暴力』も少しずつ読み進めていこうと思う。

 

年が明けてから読んだ本はどれもそれぞれにいい読書体験だった。特によかったのをいくつか。山﨑佳代子著『そこから青い闇がささやき—ベオグラード、戦争と言葉』は今文庫化された意味があまりにも大きい一冊だった。暴力が正当化されすぎている昨今の状況と照らし合わせながら読むと、歴史はどうしてこうも何も変わらないのかと嘆きたくなる。

  そこから青い闇がささやき ――ベオグラード、戦争と言葉 (ちくま文庫 や-60-1)                                        〈トラブル〉としてのフェミニズム: 「とり乱させない抑圧」に抗して

 

『<トラブル>としてのフェミニズム—「とり乱させない抑圧」に抗して』は、バトラーの研究書『ジュディス・バトラー—生と哲学を賭けた闘い』の著者でもある藤高さんの新刊。これもまた格別によかった。フェミニズムは一枚岩ではないけど、それぞれの実践の連続性やつながりを重視して描こうとしているところがよかったし、理論だけでなく具体的実践を合わせて論じているところがより説得力を持っていたように思う。個人的に最近考えていた、痛みをどうやったら関係性の起点として据え置くことができるかという問いとも関連していて、考えつづけるための一つの視座を提示してもらえたような気持ちになった。本書で出てきたSara Ahmedの"An Affinity of Hammers"はぜひ読んでみたいと思ってさっそくダウンロードした。

 

 わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い

レベッカ・ソルニット著『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』もメモしたい言葉がたくさんあって、よかった。ソルニットの機智に富んだ文章がなんともかっこいいし、さまざまな人を登場させながら描くテクニックがすごいなあと、純粋に思った。ここでいくつかの引用を。

愛とは絶え間ないやりとり、絶え間ない対話だ。誰かを愛することは、拒絶や捨てられることに対してみずからを開くことだ。愛は、努力を通じて手に入るもので、強引に奪うものではない。そこでは支配する立場にあるのは自分ではない。ほかの誰かにも権利や決断力があるからだ。それは共同作業のプロセスだ。セックスは、最良の場合には、これらのやりとりが喜びや遊びとなるプロセスなのだ。性暴力の多くは、そうした可傷性(ヴァルネラビリティ)を否定する。男性性についての多くの教えは、誠意を持ってやり取りするスキルや意欲を捨てるよう説いて聞かせる。能力の欠如と特権意識は支配することへの衝動へと劣化し、対話を命令口調のモノローグに変え、セックスの共同作業を一方的な暴行に、支配権の誇示に変えてしまう。レイプは、身体同士が交わす愛を憎しみと怒りに変貌させる。それは武器としての男性の身体、敵としての女性の身体(異性愛のレイプの場合)を映し出すのみだ。自分の身体を武器にするのは、どんな感じだろうか。

pp. 44-45

 

共感とは、他者の存在をリアルなものにし、他者のために、他者とともに感情を抱き、自分たちの存在を拡大し、開いていくための物語だ。共感せずに生きることは、ある種の可傷性に対する自己防衛のために、自分の、そして自分の人間性の一部を遮断したり、 殺してしまうことだ。沈黙を強いること、聞くのを拒むことは、他者の人間性と他者とのつながりを認識することで成り立つ社会契約を断ち切ってしまう。

p. 52

 

物事を真の名で呼ぶこと、全力を尽くして真実を語ること、どうやっていまの場所にたどり着いたのか知ること、過去に沈黙させられてきた人々の声にこそ耳を傾けること、数えきれない物語たちが一体となり、枝分かれしていくのを見届けること、 与えられたなにがしかの特権を使い、特権を解体したりその範囲を押し広げていくこと。これらはすべて、私たちに残された責務だ。私たちはこうして、世界を作っていく。

p. 100

他者と出会い、つながるための文章をわたしも書けるようになりたいと、つよく思う。読まれるための文章を書けるようにしていきたいし、書くことは終点ではなく起点として、始まりへとつなげていけるような営みとして考えていきたい。

*1:時折、読書記録のためにつくったアカウントは読んだものや見たものを記録している。ただ少し飽きてきてもいる。またコンスタントに何かを載せたいと思うときが来るかもしれないし、来ないのかもしれない。

*2:抗い - After the sun goes down