2021/8/22

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書こうかどうか迷っていたのだけど、少しだけ今のもやもやを記しておこうと思う。

 

#Kutoo で名前の知れた彼女のこと。普段からフォローしているわけではないけど、今回の騒動のことを追える範囲で追っていた。ちょっと、あまりにも目に余る発言が多くて、驚いていると同時になんだかぐったりしてしまった。彼女の主張する「主体性」という問題については、具体的に何をどう主張したいのかが把握できていない(もちろん「女性」が往々にしてその主体性を剥奪されてきていて、彼女の場合も(彼女の主張するところによれば)主体性が剥奪されたことに、あるいはアイコン化に強く疲弊しているということは伝わったが)のだけど、そのことと「ハーフ」をめぐる議論は別にきちんとなされなければならないと思う。(それはそっちの方が大事な問題だからとかではなく、別の問題だから。)単に相手が嫌がるからという問題ではなくて、その言葉が持つ歴史性ゆえに、特にミックスルーツの人に対してはどのような属性名を使うのかは留意しなければならないのだと思う。個人が嫌がっているから、という問題ではなく。あるいは、個人が「ハーフ」という呼称を好いているから問題ないということでもない。

 

程度の差はあれど、この世界であらゆるカテゴリーにおいてマイノリティであるという人は全くいないことはないかもしれないが、たいていの人はマイノリティの側面もありつつマジョリティの側面もあるはず(もちろん圧倒的にマジョリティの側に立つ人もいるだろうが)。当然、自らがマイノリティに属さない問題においては、そこでの差別がどのようなものでどのような暴力性を持つのかということを想像をすることはできても、実感を伴って理解するということは不可能だ。だからこそどれだけ自己点検を入念にしていたとしても、ときに無意識のうちに過ちを犯してしまうかもしれない。そのときに重要なのは、自分の過ちを認めて、謝罪して、もう一度学び直して、常に自分をアップデートしていくことだと思う。過ちを指摘されたからといって、「私だってあなたに傷つけられた」「私の方が先に傷つけられた」と言ってしまっては、元も子もない。自らの過ちを認めることと、自らが受けた暴力を告発することは矛盾しない。誰だって間違えてしまうことはあるし、その度に誰かを傷つけてしまうこともある。生きていけばいくほどに他者を傷つけてしまうことに恐れを抱くことは(わたしは)本当によくあるけれど、それでもその間違いが指摘されたり批判されたりしたら、それを真摯に受け止めて、よりよい人間になりたいと思う。

 

彼女の場合はあまりにも「私が〜」「私が〜」と自らが受けた傷を主張するばかりで、他の人からなされている建設的な批判さえをもきちんと受け止めていないように見える(もちろんクソリプやアンチの発言は無視なり反論なりすればいいと思うけど)。もちろん、彼女が主張している主体性云々のことも大いに議論すればいいと思う。でも、それと彼女が犯したミスは別の話。そっちはそっちできちんと受け止めて、謝罪して、さらに学んでいこうとすればいいだけなのに。彼女や彼女周辺の人々の文章を読んでいて、フェミニズムって誰のために、何のためにあるんだろうなと思ってしまった。「私の幸せのため」というのも全くの間違いというわけではないだろうけど、これをリブの運動と簡単に結びつけるのは少し違う気がした。たしかにリブも「私のため」というのが出発点ではあるのだけど、それを通して社会が変わることを見据えていたのではなかったのか。少なくとも一連のツイートからは社会、あるいは私の周囲の環境といったものは見出せなくて、ひたすらに「私」に終始していた。なんだか「私のため」「わきまえない」「怒る」、こういうフェミニズムを語るときによく出てくる言葉のイメージがもしかして人によって大きく異なるのではないか。そう感じざるを得なかった。フェミニズムはあらゆる属性のすべての人たちのためのもの。どのような属性の人であっても、その属性ゆえに差別されない社会を目指すことがフェミニズムの役割ではなかったのだろうか。