多重露光

後悔のない選択をしたいと思っているけど、何をどう選んでも後悔するような気がしてとてもむずかしい。今に始まったことではないけど、年の瀬になって重苦しいことが重なって、何をどう感じていいのかわからなくなっている。避難するようにして移動した場所がはたして本当に今のベストな選択だったのかがわからず、どうしたらよかったんだろうと今も思っている。出来事や人間関係に対する感情が自分のなかで錯綜していて、ある感情とそれに逆行するような感情がせめぎあい、だんだんと自分が今何を感じているのか、そもそも特定の感情が著しく欠損しているんじゃないかと思えてくる。どうしても自分の過去を省みることから逃れられず、ずーっと考えているんだけど、やっぱり自分は成長の過程でネジを何本か飛ばしてここまできたのだと思う。自分が分裂していると感じることはこれまでにもままあったけど、今いろいろと振り返りながら、現在の自分には消失と分裂という概念がぴったりだという気がしてくる。多重露光の写真のように、自分の見えている世界に幾重ものフィルターと自分のまなざしが重なっている。

 

優しくて信頼のおける友人と愛おしい動物たちのおかげでなんとかここまで生かされたなと常々思う。そういう関係性や共有している記憶が最後の手綱になってくれている。ほんとうにありがたい。なるべくそういうものを自ら手放さないように、最近は「書く」を大事にしている。自分はこれまでも書くことで耐えて、生きのびてきたという自覚がある。ずっと語るべきではないと思っていたことを書いているし、そのために読んで学ぶことを意識的に始めた。現実を直視したくなかったというのもあるし、そこにわたしの経験はない、みたいな気持ちが強くて、ずっと避けてきた。でも、ほとほとこれじゃあもうだめだなという段階まで来てしまって、最近は自分の研究そっちのけでそういう類の本を読んでいる。書いたものは誰かに読んでほしいという気持ちもある一方、ただの自分語りだし、被害者面をしているだけなんじゃないかという気持ちも拭えず、まだどうなるかはわからないけど今のところ人に読まれてもいいように書いている。きっとわたしは仲間がほしいんだと思う。いつか形にできるといい。

 

 

最近食べたおいしいものたち

いつものお店や友人たちと「よいお年を」と言って未来を見据えることができたのは、良かったと思う。なかなか心穏やかにはなれないけど、来年はよい年にしたいなと思っている。

 

気持ちを一時紛らわせてくれたよい漫画

ただの飯フレです (1) 【電子限定カラー収録&おまけ付き】 (バーズコミックス)

南端(id:nantnn)さんがブログに書いていて、惹かれるものがあり購入。あとがきで「恋はステキですが、男女が出会う時もっと他のルートは存在しないのかな?といつも思っていました。かわかわさんと太郎さんが、彼らなりの、彼らにしか結べない関係を築けていけたらいいなと思います」と書かれていて、そうですよねと強く思った。なんなら多分「飯フレ」という名付けも本来必要なくて、個々の人間関係を誰かに理解してもらったり納得してもらったりする必要はないはずで、それが「男女」になると「説明せよ!」「納得させてみよ!」という規範が強まるのはほんとうに嫌になる。でも、そんな社会規範が強いからこそ、もし「飯フレ」という名付けがかれら自身にとっての肯定の言葉であるならば、やはり必要なのかもしれないとも思う。

君と宇宙を歩くために(1) (アフタヌーンコミックス)

優しくあれよ、世界。とめちゃくちゃ思う。今年読んだ作品のなかでも、かなりよかっった作品の一つ。次巻もたのしみ。

 

 

数ヶ月前にwaitlistに登録していたのをすっかり忘れていたけど、blueskyのコードをもらったのでとりあえず登録してみた。いにしえのTwitterとまではいかないけど、仕様自体は結構近い気はする。もしやっている人がいれば! 

bsky.app

202312 ときどき週報

20231204

手術。局麻そのものが痛くて悶絶。耳元で音がしていることも恐怖。思ったよりも術後が痛くて困っている。泣き言言いたくなって母に電話。いつまでも甘ったれで仕方ない。昔から何度も「〇〇が心配じゃないのか」「死んだら悲しんでくれるか」と言ってきたあの人からは何の音沙汰もない。連絡がほしかったわけじゃないし、あったらあったで困るけど、いつもあの人は自分が自分が!ってそればっかりだったんだなあと改めて。悲しみの強要は暴力だ。

 

20231205

痛くて困った。自分自身をきちんと清潔にできないこともつらい。人に会いたくなくなる。指導教授に翌日の件で断りを入れた。無理せずに、と別案をもらったが、いやそれ無理じゃね?という内容で、予定通りにと返事をした。人に迷惑をかけるのが一番嫌だと思ってしまう。怪我のときもそう。北海道で怪我をした翌々日にはフル労働日で、近しい人からは休みなよと言われたけど、穴ができる=迷惑をかけてしまうと思い、出勤した。ご高齢の方たちにさえ追い抜かされるスピードでよろよろと歩いて職場に向かった。がんばれば歩けるし、と思って。よくないなあと我ながら思う。薬を飲み、軟膏も塗り、眠った。

 

20231206

昨日よりも結構痛みが引いていた。うれしい。午後からしっかり予定通りのスケジュールをこなした。ゼミで『羊の怒るとき—関東大震災の三日間』について議論をし、東京の街の「復興」自体が虐殺の加害者によって進められたことを指摘され、当然なんだけど、ハッとさせられた。街が成り立つ過程でその下に埋められてきた大勢の死者を想像する。2020年の混乱期に、饒舌に語り出す人、正義を振りかざした人、そして監視体制が強化されていったのを思い出す。

羊の怒る時 ――関東大震災の三日間 (ちくま文庫)

 

20231207


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労働の日。帰宅してから昨日のアーカイブを見る。絶望的だが、絶望している場合ではないとも思う。

 

20231208

職場で「素朴」にゼノフォビアや「生活保護不正受給」について語る声を聞き、驚愕と憤怒と悔しさと諦めが入り混じった気持ちになった。職場について詳しく語ることはできないけど、とりわけそのような立場性において語ることの暴力性を強く感じた。即座に怒ることが重要だと思うけど、年齢・ジェンダー・職場上の立場等、複数の権力を持つ相手に対して即座に怒りを表明することは、わたしにとっては難しい。毎回、なんであのとき怒れなかったのだろうと後悔する。そのときにできるのは、少なくとも同意はしない・笑いに改変させないということくらいだ。怒る訓練が必要だと常々思っているけど、実地でうまくいった試しはまだない。怒りを隠すことは容易いのに、怒りを表明するのはなんでこんなに難しいのか。

 

20231209

先月の学会で知り合った方のお誘いで、近接領域を研究している他大院生たちと出会う夕餉となった。思わぬ形でコミュニティの狭さを知り、実はとても近いところにいたことを知る。所属ゼミはいい意味でもそうでない意味でも雑多であり、後者の意味において、自分の研究と近い人が少ないことを感じていた(つまり共通文献が少ないということ)。雑多であることは、より自分の研究を広げるという意味でとてもよくて、今までとくに不満を感じたことがなかったというか、むしろ気に入っていたのだけど、D進して以降方向性や方法論に悩むことも多く、その悩みが共有しにくい点で別の繋がりを求めていた。学会に参加する意義は人との出会いなんだなと強く実感。ここで出会った人とは来年から一緒に勉強会・研究会を定期的にすることになった。ほんとうにうれしい。オンラインは基本的に苦手で避けたいのだけど、遠方のメンバーがいるからきっとオンラインになると思う。近いメンバーだけでもオフで会ってちゃんと議論ができればと思っているけど、どうなるかな。

 

20231210

昨日知り合った人とも再会する形で、学会へ。今回は会場が関西圏だったこともあり、日帰りでサクッと行ってサクッと帰れた。とある資料が最近見つかり、その資料に関するグループ報告を聞きに行った。目的は、その資料の中に自分の研究と何らかの重なりがあるのでは(そうであるなら、その資料を使うことができるし、自分の研究の方向性を少し見定められるのではという目論見)と思って聞き、個人的にも報告者に質問をしてみたのだけど思っていたような回答は得られなかった。そんなうまいこといかないか。でも、先月の学会でも会った方と再会し、名刺をもらいっぱなしだったと思い、今回は自分の名刺を渡せた。できたてほやほやの名刺。この方ともいずれ研究のことを話す機会が持てればなと考えている。

お目当ての報告を聞いた後は、帰りがてら昨日の方たちと昼食。ひょんなことから、最近「LGBTQIA+」の「I」や「+」の部分についての講義を受けているという話を聞いた。話の途中で自分にとっては少し衝撃的な発言があり、言葉に詰まってしまった。わたしは能動的に名乗らないことを選択して生きているけれど、「Q」「A」「+」に限りなく近さを感じる(と今のところ説明しておく)自分は、この人たちの前で名乗った方がいいのだろうかと一瞬悩んでしまった。つまり、目の前にいる人間がそうした名乗りに親和性を感じる人間だと思っていない発言だったということ。ゆえに、どんな言葉を発したらよいのかわからなくなった。こういうとき、毎回名乗りについての再考を迫られているように感じてしまう。もごもごと言い淀んでいたら、うまく説明できていないと思ったようでさらに「丁寧」に説明をしてくれて、余計に苦しくなってしまった。ある特定のテーマで議論がはずんでも、それが自分自身のプライベートなことにまで派生してしまうと、うまく話が進まなくなるということは往々にしてある(セクシュアリティだけでなく、身体や病気、生活、家族のことなど)。

 

20231211

労働。辞める日が近づいてくるにつれ、職場の人間関係のよくない部分について目が行くようになり、というか嫌だったことを嫌だと思っていいのかという自覚ができたためにそのようになり、しんどいものがあるなあと思う。辞めるからいいんだけど。嫌がらせをされているわけでも給料を支払われないわけでもないし、と思って何も思わないようにしていたのだけど、同期と話しながら、そういうことでなくともおかしいことはおかしいと思っていいことを自覚していった。自分に免疫があるのか、鈍いだけなのかわからないけど。いい職場とはどういうことなのか、適切な仕事のあり方とはどんなものなのかを最近よく考える。

 

20231212

昼、打ち合わせ。夕、労働。学会で知り合った人たちと研究について話すとたのしいんだけど、打ち合わせの人たちと話すと自分は研究向いていないと思えてくる。何か言われたとかではないけど、場の雰囲気がそんな感じ。気持ちの浮き沈みが激しい。自分の至らなさばかりが見えてきて嫌になってしまう。

 

20231213

ゼミの日。午前は参加、午後は不参加。でもゼミ後の食事会には参加することになった。強気の押しに負けてしまい。どうしても参加したくないとかではないし、たのしいこともあるんだけど、大人数の場は自分の声がかき消されていくし、酒で緩んだ些細な発言に苦しくなったりするから最近はめっきり参加してこなかった。ワインのボトルが2本、3本、4本と追加されていき、酒飲みはすごいなぁと思わず感心してしまったのと同時に、過去の嫌な記憶がすぐに顔を出し、気持ちが沈む。酔っ払いの相手はもう一生分したと思ってるし、酒の嫌な部分もお腹いっぱいってほどに見てきた。でも、みんなが気分よく酔って賑わっているときにこんなこと思ってしまってすみません、とも思う。みんなが何かしらアルコールを注文するなか、ひとりだけノンアルを突き通すたび、気まずさを感じている表情を見て、こちらも気まずく思う。飲めないわけじゃなく(いうても、弱い)、自分の意思で飲まないことを選んでいるから余計に。気まずい表情を見るたびに、こういう場にはやっぱり参加しない方がいいのかなとも思う。飲むにせよ、飲まないにせよ、ずっとあの人の呪いに絡めとられているようで本当に嫌気が差す。いつか、「治療」といっていいのかわからないけど、そういう自分の生い立ちと向き合ったり理解するプロセスをちゃんと歩まなければならないと思う。

 

20231214

健康診断。職場の関係上、受けることになったんだけど、改めて考えてみたら病院でちゃんと健康診断を受けるのは初めてかもしれない。体調が悪くて検査したことはもちろんあるけど。流れ作業のように検査を受けていく。番号を呼ばれて一人ずつ検査されていくその様子を客観視したとき、ちょっと気持ち悪い感じがした。漠然と、『わたしを離さないで』のような世界観を思い浮かべる。

その日に結果がわかる診断の中では特に異常はなく、痩せを指摘されたくらいだった。でも人生の大半こんな感じですと伝えたら、なら問題ないでしょうとのことだった。あとは後日わかる診断を待つのみ。

夕方から先輩と読書会。読書会といっても新書なので、軽め。なかなか面白いテーマ設定で、ところどころ力技だなと感じるところはあったけど、新書を書くことの難しさを思うとまじリスペクトしかないねという話になった。でも、各々の研究に深く関わる人物が記されていたのもあって、その部分は結構話が白熱した。たのしい!一人で読むことでは得られない読書体験が読書会にはある。

ただおしゃべりをしていたとき、前日の食事会で「イラッとしているとき何か日本語で言葉が出る?」と尋ねられたときの話をしていた。人によっては生まれ育った地域の言葉だったり、学んだ言語だったりしたんだけど、わたしはそもそも言葉が出ないかなという返答をしたと話したら、先輩に「それはジェンダーも絡んでいると思うよ」と言われた。たしかにそれはあるかもなと思った。イラッとしたとき、生死に関わる強いワードを出すことはまずないんだけど、かれらはそういう言葉を口に出すと話していた。そもそもそういう反射的な強い言葉は圧倒的に言われる側だったし、「女」がそういう言葉を使うのはけしからん、はしたないと教育されてきた。そういうのは、男子の喧嘩=元気が良くていいねと言われるのと同根だろう。わたしにも、かれらにも根付いている悪しき価値観。

 

20231215

すごーく面倒で嫌だった授業の最終回。フェローシップを受給している関係で受けなければならない授業だった。初回はこんなところでやっていけるのか?と不安しかなかったというか、あまりにも馬鹿馬鹿しいと思ってしまってたんだけど、先生が突き抜けすぎててもはや笑うしかなかったし、一周回ってこれはこれでいい教育方法なのかもと思ったり。授業の内容がためになったとかではないけど、教育という点で納得した部分はあった。普段交わらない分野の人や話す機会のなかった同研究科の先輩と話すことができたのもよかった。授業後には先輩たちとインドカレーを食べて、おしゃべりもできて、結局いい時間だったかもなんて思っちゃっている(チョロい)。学会や研究発表の場において、論破して報告者が何も言えなくなることをよい批判だと勘違いしている人は多いよね(=批判と否定は違うだろってこと)とか、本来発表の場は互いの研究をよりよくするための場なのにねという話をして、分野は違えどそう思っている人が他にもいることが救いだった。論破文化滅びろ。

話の流れで出身大学の話をすることになり、やはり女子大という場はわたしにとってかなりユートピアに近い空間であったことを再確認した。女子大が持つ問題点もあるし、特に卒業後にはトランス女性の受け入れに関してかなり内部が分断しているという話も聞いていたから、ユートピアと断言することはできない。それでもなお、高校までずっと共学で卒業後も共学に戻った身からすると、やはりユートピアに近かった。性的にまなざされることがなく、他者との距離を適切に保てる場という意味でユートピアだったし、大学の外にはそのような空間が確保されていないという意味でもユートピアだった。安全であるという感覚がたしかにあった。こういう話はあの場所を卒業した友人ともよくしている。翻ってそれは、あの場所から出たわたしたちの日常があのユートピアとはかけ離れているということを意味しているのだけど。

 

20231216

open.spotify.com

ちょうどハマった頃のKpopプレイリストを聴く。全然昔って感じしないけど、普通に6年以上経っていてびっくりする。時間の流れが早すぎるよ。

そういえば冬のプレイリストをつくった。新しくプレイリストをつくったのは久々だ。ジャンルはいろいろ混在、冬風にあたりながら歩くときとか、布団のなかでぬくぬくしながら聴いている曲をまとめた感じ。

open.spotify.com

夕方に旅するgallery&salon『inoli』へ行って、「梅の香 桃の実 桜の花」という書店で日記本を買った。この間BONUS TRACKで開催されていた日記祭にいろんな人が行っていてちょっと羨ましかったのもあるし、実は、共同で制作中のzineが間に合えば売りたいなと思い、夏くらいだったか、出展の申し込みをしようか迷っていたのもある(結局間に合わず、というか作業中断中)。わたしも人の日記本読みたい!という欲がムクムクと拡大していて、そんなとき京都で購入できる場所があると知って行ってみることにした。

購入したのは柴沼千晴『親密圏のまばたき』と、途中『自由研究—子のいる人生 子のいない人生』

場所柄、生活圏外の人はなかなか行かないような場所で、内心結構ドキドキしながらドアを開いた。他に人がいなかったのもあって、出品されていた本をゆっくりと眺めたり、アクセサリーや絵なども見させてもらった。帰り際には「お試しなのでどうぞ」と野草茶までいただいてしまった。お茶はとても好きなので、うれしい。
まだパラパラとページをめくっている程度で、ちゃんと読み始めていないけど、自分の書いたものに手をかけてちゃんと形にして誰かに届けるということをやり遂げている、そのこと自体に拍手喝采である。『親密圏のまばたき』は約半年の日記が1冊になっていて、これだけの量の日常を記して残せるなんて、もうそれだけですごいなぁって。また読んだら感想を書き留めたい。

 

theworldofsilence.hatenablog.com

この間北海道で再会した友人のことを書いた過去の記事を見つけた(すっかり記憶から落ちていた)。自分で書いておきながら自分でうるっときてしまった。途絶えない関係性はちゃんとあるし、その関係性があることは十分に幸せなことなんですよ。まだまだ根強い単一的な「幸せ」を、いつだって攪乱してやりたいし、「幸せ」はもっと多種多様で多義的で多面的だと主張しつづけたい。関係性に優劣はないし、すべての関係性に名前をつけなくたっていいよ。わたしたちがわたしたちであることを確認し、ときどき更新したりしなかったり、それだけでいい。

健康

健康かどうかは損なってみてはじめてわかることだ、と損なうたびに思っている。健康をどうとらえるのかは非常にむずかしいテーマだけど、どのような意味であれ、健康なときに「わたしって健康だな〜」とかって、あんまり思わない。風邪をひいたり、病をわずらったり、怪我をしたり、精神的にどうにもならなくなったときにこそ、「健康とは……」みたいなことを考え始めてしまう。

今回は、怪我をした+予定していた小さな手術の術後が思ったよりもしんどかったことがきっかけになっている。手術は自分にとってプライベートなことなので、割愛。

11月末に久しぶりに北海道へ、そして1年半ぶりくらいに学部のときの友人に会いに。満を持して向かったわけだけど、札幌に到着して5分ほどで怪我。前日の夜に降った雪が急激な冷え込みでアイススケートのリンクのようにツルツルになっていた。キャリーケースをもったまま階段からすってんころりん。その直後に軽い脳震盪を起こしたのもあって、念のためMRIを撮って、その後整形外科でCT。結論からいえば、単純に尾てい骨のあたりの打撲だったんだけど、何をするにも痛くて、せっかくのたのしい再会が友だちに気遣ってもらうばかりで申し訳なかった。

MRIは初体験だったんだけど、もう二度とやりたくない検査No. 1(暫定)だった。閉所×騒音(あるいはいずれかの単体)でパニック発作になることがある自分にとって、トラウマティックな検査だった。閉所でどでかい音が鳴り響くだけでも十分恐怖なのに、動かないように頭をテープのようなもので押さえつけられるのがほんとうにしんどかった。もうやらずに済むように、大病に罹りたくない。

そういえば、怪我をして歩けなくなったときはまだ友だちと合流前なのもあって、視界が狭まるのやばい、どうしよう!でも救急車は恥ずかしいし申し訳なさすぎる…みたいな気持ちでぐるぐるしちゃって(ほんとうにやばいときは迷わず救急車!)、はじめて「♯7119」に電話をかけた(知識だけはあって、本当によかった)。「♯7119」は急な怪我や病気で、救急車を呼ぶべきか、病院へ行くべきか、行くならどこに行くべきかを医療関係者に相談できるダイヤル先*1。わたしの場合、札幌の土地勘や病院の情報がまったくわからなかったのと、自分になぜめまいや吐き気などの症状が起きているのかわからなかった(頭は打っていなくて、階段から滑り落ちたときに尾てい骨を打っただけだったから)から、①怪我の経緯説明、②(話している間に多少落ち着いてきたので救急車は必要なさそうだったため)病院に行くなら何科を受診すればいいのか、③土曜日ということ&現在地から近い病院はどこがあるのかを尋ねた。そのときはさすがに少しパニック状態だったから、自分の話を聞いてくれている人がいるという安心感もあったし、的確に必要な情報を教えてもらえたのがすごくよかった。なんとなく知っていた程度のことだったけど、なにかあったときにいきなり救急車を呼ぶのではなく、こうして相談できる機関があるというのはすごく大事なことだと思った。とりわけ一人暮らしで唯一不安になるのは病気や怪我をしたときだから、わたしのような一人暮らし勢には安心材料の一つになる。

 

怪我の記憶ばかりでは悲しいので、よろよろと歩きながらもたのしめた食事の記憶。

気になっていたお店に行ける程度の怪我だったのは、不幸中の幸いだった。

最終日はミュンヘン・クリスマス市にも少し行けて、5年前のミュンヘン、ベルリン、日帰りでサクッと散歩したプラハの旅を思い出した。

学部生のころ、一人で2-3週間単位のヨーロッパ放浪旅を何度かしていて、今考えると為替がよかったんだろうし、フッ軽だし、怖いもの知らずだった。宿泊先はとにかく安いドミトリーばっかりだったけど、今はもうあのときのような節約旅は無理だなと思う、身体的にも精神的にも。でも、だからこそあのとき行けてよかった。

また行きたいなと思う反面、円高すぎるというのもあるし、情勢が不安定すぎるなぁとも思う。また、いつか。

🔹

最近、美しい音楽ばかり聴いていて、涙腺がガバガバである。良すぎて泣いているのか、泣きたくて聴いているのかが曖昧になる。しばらく聴いていなかったalternative, folk系の曲を選んでいる。やっぱり好き。またそのうち久しぶりにプレイリストを公開しようかな。


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出だしから美しすぎませんか。

Light reflects from your shadow / It is more than I thought could exist / You move through the room / Like breathing was easy / If someone believed me

静かな独白という形容が自分のなかでは一番しっくりきている。


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Live versionが好きなAURORAのRunaway。一人の身体からこの声が出てくることに毎回感動してしまう。


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偶然見つけた曲なんだけど、Color Me Blueというタイトルがここまでしっくりくる音ってあるのかと。Akaneというアーティストについてもっと知りたいのに、いまいち検索しても出てこなくて不詳。


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まだ全然進撃引きずってます。この人のこの2曲のピアノカバーが凄まじく滲みる。大勢の人が言ってるけど、進撃はあらためてOSTもすばらしいし、最後まで見ると序盤の曲のすばらしさがさらに際立つ。


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K-popアイドルの日本語曲を聴くたびに複雑な気持ちになるし、来日すると日本語を喋ることを求められているのも嫌なんだけど(継続する植民地主義…と思ってしまって)、방탄(大好き)のCrystal Snowが本当にヒーリング曲として好きすぎるという気持ちは止められず。最初のサビの지민(推し)の歌声にウッウッ(号泣)となってしまう。またグループとして集まったときにライブに行けることを願っております。

 

 

三歩進んで二歩下がって、立ち止まって座り込む

・知らずにいることはできないと思い、インターネットを放浪し情報を得る。が、知れば知るほどに強制的に命を中断/終了させられていく姿があまりにも残酷で、途方もない気持ちになっている。非常に慎重にいわなければならないけど、そのようにして中断/終了させられていく命は自分のすぐ傍にもあるわけで、文脈を一緒くたにしてしまうのではなく、同時に切り離して考えるのでもない仕方で、どのように言葉を紡いでいくことができるのだろうと考える。無力ではないにせよ圧倒的非力であり、思わず手が止まる。

 

・みんなで観た"Arna's Children"、苦しくてたまらなかった。一人じゃなくて、よかった。

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・『進撃の巨人』が終わってしまった。とてつもなく精神的なエネルギーを使ったし、とてもじゃないけど受け止めきれなかった。あまりにも現実とリンクしてしまったことも一因だったとは思う(リンクさせてしまうことがよくないとはわかりつつ、時期が悪かった)。丸1週間くらいは熟睡できなくて、毎晩夜中の3時くらいに目覚めては「ほんとうにこれしかなかったのか」とメソメソして寝付けなくなるということを繰り返していた。原作は読まずにアニメだけを追ってきたため、結末を知らず、余計に打撃が大きかったというのもある。さまざまな考察を読んだり見たりして、少しずつ回復している。二次創作のありがたみを痛いほどに感じている。ありえたかもしれない可能性を形にしてくれてありがとう。それに救われている人間がここに確実に一人います。

 

・『ハイキュー‼︎』の読書会を先輩と始めた。たまたまスケジュールの関係上、今月から5巻ずつと決まったけど、『進撃の巨人』でげっそりしたわたしにとって、『ハイキュー‼︎』はヒーリングになっている。誰も死なない漫画、ありがとう。先輩とここよい!というシーンを語り合い、これが最後のあそこのシーンと繋がるのか〜などと和気あいあいと語りまくる。人と好きなものを分かち合えるって最高。しかし今思い返しても人文学徒らしからぬ語彙力のなさだったな。己の<好き>と向き合うときには仔細かつ丁寧な分析をする余裕などなく、「よい」「好き」「最高」「熱い」といった至極単純な言葉に万感の思いを込めひれ伏すしかないのである。ちなみに『進撃の巨人』は根こそぎ活力を奪っていくけれど、ほんとうに好きで大事な作品だし、10年間ありがとうの気持ち。時間と気持ちの余裕ができた頃に原作を読もうと思う。

 

・査読のコメントを見ながら論文修正をする日々だけど、「リライトではなく指摘箇所の修正のみ」というのがとてもやりにくい。時間が経った自分の文章は、もう手入れがしたくてたまらなくなるし、なんなら全部書き直したくなる。2万字という字数におさめることも至難の業だなぁと。修論は好き放題書かせてもらったから、今更ながら字数制限があることのむずかしさを感じている。ほんとうに今更だけど。注に注を重ねていきたい気持ちは山々だけど、時間も字数もそろそろ限界。次があることを明記して、どうにか終わらせるしかない。とりあえず査読ありの論文を1本書けてよかった。でも正直そういう業績のためというより、修論を整理する目的で書いたから新しいことを書いたわけではまったくない。まだ書きたいことも調べたいこともある。もりもり書くぞ!……というか、初めて査読されて思ったけど、査読者の名前教えてくれよ!コメントで教示してくれたことやら、読むべき文献やら聞きたいんだけど。なんでこっちだけ素性を明かして読まれなきゃいけないのだ、フェアにやろうや!の気持ち。

 

・はじめて外部の学会に参加した。知らない人ばかりのなかに飛び込むのはいつだって緊張するものだけど、緊張しすぎてめっちゃ肩凝った。院生でも名刺交換するもんなんですねぇと学んだ。次は自分もつくって持っていこ。普段はなかなか出会えない自分の近接領域の研究をしている他大院生の方や、学部の頃にお世話になった先生と偶然再会し久しぶりにご挨拶できたのはすごくよかった。学会に参加する意義はここにあったんだなあ。報告もおもしろいものがいくつかありとても刺激を受けた反面、あまりにも報告・質疑応答時間が短くて、これじゃあ議論なんてできないじゃんと思ったのも事実。学会で報告するというのはやっぱり業績づくりという側面が大きいんだなと思った。でもそれがきっかけできっと人のつながりは増えるから、悪くはない。中日の夜は現地で一緒に過ごした先輩たちと食事をしながら、アカデミアのポリティクスについて少しばかり話した。そういうのほんとうに嫌になるし、アカデミアにいたくない〜ってなる。こういうのは知らない方がアカデミアでサバイヴできると思うけど、一度知ってしまうとそういう人間関係意識せざるを得ないし、めちゃめちゃ排除されがちだから怖い。ため息ばかり出ちゃうけど、言葉をちゃんと交わせる人と地道に議論を重ねていくしかないんだろうなぁ。そういう意味でも今回の学会はいい意味で雑多だったから、自分も来年はここでやろうかなと思ったりした。

 

・オンラインはとても便利だけど、<場>にはなりにくいなとずっと思ってる。最近は久方ぶりの「新しい人と会って話したいぞ」欲があるからか、その気持ちが再燃してる。オンラインは手段やきっかけとしてはめっちゃいいんだけど、手段はあくまで手段であって<場>ではない。東京にいたときに参加した小規模な読書会や自分で主催した読書会のような、集える<場>をつくりたいなと思い始めている。課題図書を決めるのもいいし、硬派な学術書を読むのもいいけど、もっとカジュアルなものでもよさそう。一人一人がその一瞬一瞬を生きのびるために読む、引用する、演じるということは往々にしてある。そういうのを一緒に積み重ねていけるような<場>をつくりたい。京都のレンタルスペース探してみようかな。でもTwitterからずいぶんと離れてしまったいま、どうやって人を集めるかのほうが問題かも。昔やったときはTwitterのffで募っていたのもあって、safer spaceという観点からも多少安心感があった(わたしよりもむしろ参加してくれた人のほうがそういう意識は強かったと思う)。どうやったら<場>をつくれるかな。

 

・超個人的出来事と感情を言語化するための日記スペースとしてしずかなインターネットという場所を使い始めている。いまはまだ実験中。publicなようでいて、コミュニティ化せず断片でありつづけられるのはよさげだ。

sizu.me

 

・めちゃくちゃよかった。「人と生きる」というときの「と」という部分の多義性について最近はよく考えている。異性愛の実践ができないということは、いまのところ、もう納得せざるを得ず、ではどうすればということをもうずっと考えている気がする。個別具体的な状況において「ない」ことは説明できても、それを概念として説明することも、そもそも自分自身が理解することさえむずかしい。他者と関係し合うことはきっと言葉をはるかこえた複雑性を抱え込んでいるのだと思う。

min.togetter.com

 

・更新されるたびに読んでいる。いつかどこかのタイミングで、自分自身の受けてきたものをきちんと理解し、なんらかの対処が必要なんだろうとは思う。今はまだ安易に消えたくなったりするので、もう少し時間が必要だし、それをどこで・誰の前で(あるいは誰と一緒に)やるのかはとても大きい。頭ではわかっていても、じゃあそれによって傷ついてきたわたしはどうすれば?という気持ちになってしまう。でも、ちゃんと学んでおかないといけないなとは思っている。

ohtabookstand.com

 

・傷とともに生きること。

わたしたちのほとんどは、災禍によって傷を負った他者と接しながら生きている。けれどそのことを、ごく自然なふるまいで意識の外に追いやって、あるいは気づくことさえないまま、生活している。他者の傷に触れないこと。それはときに、"礼儀”や優しさだと評される。けれどそうしているうちに、個人として、社会として、その傷の存在自体を忘れてしまうならば、傷を抱えながら生きた/生きている彼彼女ら存在そのものを否定することにもなりはしないか。
(…)
時代時代の困難を乗り越えて、記録は残されている。一見”歴史”から排除され、すでに消されてしまったかのようであっても。だからわたしたちは問われている。これらの言葉を読んだり、聞いたりするのかどうかを。これまで知った気でいた出来事の別の一面を受け止めながら、注意深く、執念深く、真実を求める気があるのかを。そしてさらには、ごく身近な場所で慎ましく生きる、いまだ語るべき言葉を語れないままでいる人びとに対峙する勇気はあるのか、ということを。

(瀬尾夏美「聞く者たちの文学、忘却に抗するための会話」)

ユリイカ2022年7月号 特集=スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ -『戦争は女の顔をしていない』『チェルノブイリの祈り』『セカンドハンドの時代』…耳の作家、声による文学-

 

・逃げられる場所はいくつでもあっていいし、いつでも逃げていい。

 

・もうTwitterは終わってるし、戻る気概もないけれど、やっぱりインターネットに浮遊してたいかも〜と、Twitterに見切りをつけてから1年経った最近思い始めている。ゆるやかなサードプレイスとしてのインターネット、何処や。いいねとかRTじゃなくて、リプ送りまくって対話しまくってた10年以上前のTwitter的な場所がほしい〜と思うけど、誰にとっても身近になってしまったインターネットの世界では、もはやそれはユートピアにすぎないのかも。一瞬だけ存在したユートピア