三歩進んで二歩下がって、立ち止まって座り込む

・知らずにいることはできないと思い、インターネットを放浪し情報を得る。が、知れば知るほどに強制的に命を中断/終了させられていく姿があまりにも残酷で、途方もない気持ちになっている。非常に慎重にいわなければならないけど、そのようにして中断/終了させられていく命は自分のすぐ傍にもあるわけで、文脈を一緒くたにしてしまうのではなく、同時に切り離して考えるのでもない仕方で、どのように言葉を紡いでいくことができるのだろうと考える。無力ではないにせよ圧倒的非力であり、思わず手が止まる。

 

・みんなで観た"Arna's Children"、苦しくてたまらなかった。一人じゃなくて、よかった。

youtu.be

 

・『進撃の巨人』が終わってしまった。とてつもなく精神的なエネルギーを使ったし、とてもじゃないけど受け止めきれなかった。あまりにも現実とリンクしてしまったことも一因だったとは思う(リンクさせてしまうことがよくないとはわかりつつ、時期が悪かった)。丸1週間くらいは熟睡できなくて、毎晩夜中の3時くらいに目覚めては「ほんとうにこれしかなかったのか」とメソメソして寝付けなくなるということを繰り返していた。原作は読まずにアニメだけを追ってきたため、結末を知らず、余計に打撃が大きかったというのもある。さまざまな考察を読んだり見たりして、少しずつ回復している。二次創作のありがたみを痛いほどに感じている。ありえたかもしれない可能性を形にしてくれてありがとう。それに救われている人間がここに確実に一人います。

 

・『ハイキュー‼︎』の読書会を先輩と始めた。たまたまスケジュールの関係上、今月から5巻ずつと決まったけど、『進撃の巨人』でげっそりしたわたしにとって、『ハイキュー‼︎』はヒーリングになっている。誰も死なない漫画、ありがとう。先輩とここよい!というシーンを語り合い、これが最後のあそこのシーンと繋がるのか〜などと和気あいあいと語りまくる。人と好きなものを分かち合えるって最高。しかし今思い返しても人文学徒らしからぬ語彙力のなさだったな。己の<好き>と向き合うときには仔細かつ丁寧な分析をする余裕などなく、「よい」「好き」「最高」「熱い」といった至極単純な言葉に万感の思いを込めひれ伏すしかないのである。ちなみに『進撃の巨人』は根こそぎ活力を奪っていくけれど、ほんとうに好きで大事な作品だし、10年間ありがとうの気持ち。時間と気持ちの余裕ができた頃に原作を読もうと思う。

 

・査読のコメントを見ながら論文修正をする日々だけど、「リライトではなく指摘箇所の修正のみ」というのがとてもやりにくい。時間が経った自分の文章は、もう手入れがしたくてたまらなくなるし、なんなら全部書き直したくなる。2万字という字数におさめることも至難の業だなぁと。修論は好き放題書かせてもらったから、今更ながら字数制限があることのむずかしさを感じている。ほんとうに今更だけど。注に注を重ねていきたい気持ちは山々だけど、時間も字数もそろそろ限界。次があることを明記して、どうにか終わらせるしかない。とりあえず査読ありの論文を1本書けてよかった。でも正直そういう業績のためというより、修論を整理する目的で書いたから新しいことを書いたわけではまったくない。まだ書きたいことも調べたいこともある。もりもり書くぞ!……というか、初めて査読されて思ったけど、査読者の名前教えてくれよ!コメントで教示してくれたことやら、読むべき文献やら聞きたいんだけど。なんでこっちだけ素性を明かして読まれなきゃいけないのだ、フェアにやろうや!の気持ち。

 

・はじめて外部の学会に参加した。知らない人ばかりのなかに飛び込むのはいつだって緊張するものだけど、緊張しすぎてめっちゃ肩凝った。院生でも名刺交換するもんなんですねぇと学んだ。次は自分もつくって持っていこ。普段はなかなか出会えない自分の近接領域の研究をしている他大院生の方や、学部の頃にお世話になった先生と偶然再会し久しぶりにご挨拶できたのはすごくよかった。学会に参加する意義はここにあったんだなあ。報告もおもしろいものがいくつかありとても刺激を受けた反面、あまりにも報告・質疑応答時間が短くて、これじゃあ議論なんてできないじゃんと思ったのも事実。学会で報告するというのはやっぱり業績づくりという側面が大きいんだなと思った。でもそれがきっかけできっと人のつながりは増えるから、悪くはない。中日の夜は現地で一緒に過ごした先輩たちと食事をしながら、アカデミアのポリティクスについて少しばかり話した。そういうのほんとうに嫌になるし、アカデミアにいたくない〜ってなる。こういうのは知らない方がアカデミアでサバイヴできると思うけど、一度知ってしまうとそういう人間関係意識せざるを得ないし、めちゃめちゃ排除されがちだから怖い。ため息ばかり出ちゃうけど、言葉をちゃんと交わせる人と地道に議論を重ねていくしかないんだろうなぁ。そういう意味でも今回の学会はいい意味で雑多だったから、自分も来年はここでやろうかなと思ったりした。

 

・オンラインはとても便利だけど、<場>にはなりにくいなとずっと思ってる。最近は久方ぶりの「新しい人と会って話したいぞ」欲があるからか、その気持ちが再燃してる。オンラインは手段やきっかけとしてはめっちゃいいんだけど、手段はあくまで手段であって<場>ではない。東京にいたときに参加した小規模な読書会や自分で主催した読書会のような、集える<場>をつくりたいなと思い始めている。課題図書を決めるのもいいし、硬派な学術書を読むのもいいけど、もっとカジュアルなものでもよさそう。一人一人がその一瞬一瞬を生きのびるために読む、引用する、演じるということは往々にしてある。そういうのを一緒に積み重ねていけるような<場>をつくりたい。京都のレンタルスペース探してみようかな。でもTwitterからずいぶんと離れてしまったいま、どうやって人を集めるかのほうが問題かも。昔やったときはTwitterのffで募っていたのもあって、safer spaceという観点からも多少安心感があった(わたしよりもむしろ参加してくれた人のほうがそういう意識は強かったと思う)。どうやったら<場>をつくれるかな。

 

・超個人的出来事と感情を言語化するための日記スペースとしてしずかなインターネットという場所を使い始めている。いまはまだ実験中。publicなようでいて、コミュニティ化せず断片でありつづけられるのはよさげだ。

sizu.me

 

・めちゃくちゃよかった。「人と生きる」というときの「と」という部分の多義性について最近はよく考えている。異性愛の実践ができないということは、いまのところ、もう納得せざるを得ず、ではどうすればということをもうずっと考えている気がする。個別具体的な状況において「ない」ことは説明できても、それを概念として説明することも、そもそも自分自身が理解することさえむずかしい。他者と関係し合うことはきっと言葉をはるかこえた複雑性を抱え込んでいるのだと思う。

min.togetter.com

 

・更新されるたびに読んでいる。いつかどこかのタイミングで、自分自身の受けてきたものをきちんと理解し、なんらかの対処が必要なんだろうとは思う。今はまだ安易に消えたくなったりするので、もう少し時間が必要だし、それをどこで・誰の前で(あるいは誰と一緒に)やるのかはとても大きい。頭ではわかっていても、じゃあそれによって傷ついてきたわたしはどうすれば?という気持ちになってしまう。でも、ちゃんと学んでおかないといけないなとは思っている。

ohtabookstand.com

 

・傷とともに生きること。

わたしたちのほとんどは、災禍によって傷を負った他者と接しながら生きている。けれどそのことを、ごく自然なふるまいで意識の外に追いやって、あるいは気づくことさえないまま、生活している。他者の傷に触れないこと。それはときに、"礼儀”や優しさだと評される。けれどそうしているうちに、個人として、社会として、その傷の存在自体を忘れてしまうならば、傷を抱えながら生きた/生きている彼彼女ら存在そのものを否定することにもなりはしないか。
(…)
時代時代の困難を乗り越えて、記録は残されている。一見”歴史”から排除され、すでに消されてしまったかのようであっても。だからわたしたちは問われている。これらの言葉を読んだり、聞いたりするのかどうかを。これまで知った気でいた出来事の別の一面を受け止めながら、注意深く、執念深く、真実を求める気があるのかを。そしてさらには、ごく身近な場所で慎ましく生きる、いまだ語るべき言葉を語れないままでいる人びとに対峙する勇気はあるのか、ということを。

(瀬尾夏美「聞く者たちの文学、忘却に抗するための会話」)

ユリイカ2022年7月号 特集=スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ -『戦争は女の顔をしていない』『チェルノブイリの祈り』『セカンドハンドの時代』…耳の作家、声による文学-

 

・逃げられる場所はいくつでもあっていいし、いつでも逃げていい。

 

・もうTwitterは終わってるし、戻る気概もないけれど、やっぱりインターネットに浮遊してたいかも〜と、Twitterに見切りをつけてから1年経った最近思い始めている。ゆるやかなサードプレイスとしてのインターネット、何処や。いいねとかRTじゃなくて、リプ送りまくって対話しまくってた10年以上前のTwitter的な場所がほしい〜と思うけど、誰にとっても身近になってしまったインターネットの世界では、もはやそれはユートピアにすぎないのかも。一瞬だけ存在したユートピア