2022/01/25 今日いちにちを生き延びるために

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気づいたら1月ももう終盤で、あっという間に終わってしまいそうだ。毎年毎年思っているし言っている気もするけど、年明けの感覚というものがなくて、ひたすら過ぎゆく日々のなかに身を置いているという感覚だけしかない。便宜的に新年の挨拶を家族や友人知人とするけれど、ほんとうに形だけのものだ。区切りという意味で言えば、わたしにとっては(というか多くの学生にとってはおそらく)12月1月よりも3月4月の方がしっくりくる。今もこうしてここに書き込んでいるけど、実はまだ忙しい最中で、学期末の提出物にてんやわんやしている。今日も午後から研究室に行く予定。

 

「取り戻すべき日常」は、果たしてこれまでと同様の日常なのか。過去に戻るのでもなく、此処に留まるのでもなく、ただ漠然と何かを棚上げするかのように未来を描くのでもなく、いま、今日をどうつくるのか。

この問いに携える道具のひとつとなるよう、この本をつくった。

私たちは震えている。あるいは、喘いでいる。もしくは、戦っている。日々あらゆるものの価値についての決定を要請され、その答えを急かされる。焦らずにはいられず、 自らの内のどこからか湧いてくる、よくわからない渇望に捕らえられていく。そんな日々の向こう側にどのような未来を描けばいいのだろう。そう立ち止まる間にも、実態のよくわからない大きな力が、私たちをまた元のサイクルに引き戻そうとする。

このまとわりつくような濁流から、身を引きはがし、たとえ不器用であろうとも痺れるような実感がともなう歩みを得るには、改めて今日のつくり方、そして外界との関わり方についての方策を探る必要があると考えた。

(『ミルフイユ04』「序文 『今日のつくり方』」より)

 

また感染者数がどんどんと増えている。自分の身の振り方を考える。提出物が終わったら、この学期で少し話すようになった人たちと腰を落ち着けて会話してみようと思っていた。が、なかなか人と会う約束をするのが憚られる状況にまたなってしまった。もちろん会えないということはないのだけど、今は人と会うことを控えた方がいいのかもしれない、そう思わせるだけの状況と雰囲気だ。誰もが思っているように、わたしもさすがに「いったいいつまで…」という気持ちになってきた。元来超インドアの出不精だから、外へ出られないことがそこまでの苦痛ではなかったし、今も基本的にはそう。でも外に出る出ないよりも、誰かと会う/どこへ行くというのを誰かに監視されている/評価されていると思ってしまうこと自体に辟易としている。だんだんといろんな状況を知ること、見ること、反応することにも疲れてきた。自由に移動ができないという物理的な問題以上に、他者の行動に積極的に介入していくことが是とされることや、評価してもいいと思っている人がごまんといること、そしてそれはあながち無視ができないこと、そういうことにもううんざりしている。元の世界の在り方がどうであったかを忘れつつある。

 

「今日のつくり方」は東日本大震災直後に出された文章だから、念頭にある状況は今とは異なるけれど、それでもあまりにも「いま」必要な言葉だった。将来のことをちっとも描けなくなってしまったこと、希望を抱けなくなったことに悲観していたのだけど、もうそれは仕方のないことだとあきらめて、とりあえず今日を生きるために考えつづけてみようと思う。この先どう転んでいくかほんとうにほんとうにわからないんだけど、何も決まっていないということはどうとでも転んでいけるということでもあるんだし、いったんどちらに足を動かしていくかを考えるより、いまどこで足踏みしているのかを考えてみる。ちゃんと生き延びないといけないし、生き延びたいといまは思えている。きっと大丈夫になる。

 

先週は研究の報告をした。先輩も先生もいろんなアイディアとアドバイスをくれて、ありがたい。本当にここに進学してよかった、とこの1年ずっと思っていたように思う。別の先生たちからは厳しい言葉ももらったけど、たしかになと思う節もあり、今回はきちんと受け止められた。来年度はいよいよ修論を書く。卒論のやり直しのような気もするし、すこし変わったようにも思う。ずーっとどうしようどうしよう、こんなんで論文書いてしまっていいんだろうかと右往左往していたけど、自分がやりたいようにやってみようと思う。納得できるように。納得するために、まだまだ勉強すべきことは山のようにある。ここ数日は理論関連の本をパラパラとしていて、もう少し本腰入れてこういう本を読んでいかないとなと思った。わたしは圧倒的にそちらの方面が不勉強すぎる。援用するにせよ批判するにせよ、精読することは必要。この春はいくつかの読書会もやるし、人と一緒に勉強を続けられたらと思う。でもとりあえず今は来週、再来週締切のものを仕上げないと。

 

今日のことを考えるといいつつ、やっぱり常に1年後のことは考えている。後期課程に進むかどうかずっと迷っている。進んだら進んだでたのしいだろうとは思う…と同時にやっぱりきびしいだろうとも思う。業績が出せるか、その能力が自分にあるのか。何より一番ネックなのはお金。それに関してはもう何年もずっと後ろめたさを感じながら勉学に励んできたから、そろそろこの後ろめたさを解消するために違うことをやってみてもいいのではないかとも思う。働きながら勉強や研究をするむずかしさは容易に想像できるけど、それを痛感してから戻ってきてみてもいいかもしれない。30代前半あたりにアカデミアに戻ってこれれば。でも、友だちが言っていた「今更この安定を手放せるのか…勇気が出ない」という言葉も真理だと思った。自分が安定するかどうかは知らんけど、自活していた生活を30代になってから手放せるのか。それもわからない。どうすれば研究する時間と余力を持ちつつ、生活をしていけるんだろう。1年経ってもベストアンサーは見出せないでいる。

 

よく行く喫茶店のお姉さんと先日帰り際に長話をした。不思議なお店だけど、自由で、わたしはとても好きな店。お姉さんが「1日に会える新規の人って限りがあるんですよね…恥ずかしながら」と言っていて、すごく共感していた。人に会うにもエネルギーが必要。やり過ごすということがむずかしい性格の自分にはお姉さんが話すこと一から十まで共感できた。毎日知らない人ばかりと顔を合わせるのも楽じゃないだろうし、他方、毎日同じ人(好きな人は別として)とばかり顔を合わせるのも苦痛だなと考えていた。10代の頃、学校が嫌いだった理由のひとつは間違いなくそれだった。たいして親しくもない人30人くらいと毎日会って、毎日同じ空間で過ごさなければならなかった。高校卒業後はそういうことから縁遠くなって好きなように過ごせていたけど、来年以降またどこかの組織に属することになったらそんなことになるのだろうかと思うと身震いする。どうしていけばいいんだろうか。今日も、明日も、来年も。