2021/12/31 

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以前は暦によって勝手に自分の時間が区切られてしまうことが腹立たしくて、「よいお年を」「あけましておめでとう」なんて言葉、ばかばかしいと思っていた。10代後半から20歳あたりが一番尖っていて、今思うとなんて生意気で扱いにくい奴だったんだと思う。

「よいお年を」という言葉がコロナ禍で今までとは異なる響き方を持つようになったと感じる。どうしても今の状況下で2022年がよい年になるなんて想像ができなくて、でもよい年になる想像ができないからこそ、この言葉が新しい意味を帯び始めてきているのかもしれない。誰にとっても足元が崩れてしまうようなかなしい出来事が起きないといい。今年が終わることにほっとしつつ、また別の年が始まってしまうことがすこしおそろしい。

 

ひょんなことから今までやりとりのあった人からブロ解されていたことがわかって、複雑な気持ちになった。どうせ関係を断ち切るならすべてを切ってくれていいのにな。でも自分でも今年は意識してインターネットの使い方を変えたから、とくに直接の知り合いや友人以外からはもしかしたら前のアカウントとは異なる人のように見えるのかもしれないなとも思った。インターネットにすべてを載せる必要はまったくもってなく、打ち明ける必要もないんだよね。そういうことは10代の頃からわかってはいたけど、くるしくて文字にして「共感」してくれる人を求めてしまっていた時期も昔はたしかにあった。でもだんだんと自分をさらけだしていくそのこと自体がしんどくなって、それもあってアカウントを新しく作りなおして、毒にも薬にもならないようなことばかり書くようになった。たまに衝動的に書いてしまったときもあったけれど、すぐに消していた。

これは特定の誰かにではなく、過去の自分に向けて思っていることで、たとえば少し前まで積極的に読んだ本や見た映画の記録を書き残していたけど(今も高揚感が抑えられないときや勧めたいときは書く)、逐一不特定多数に報告するなんてアホらしと唐突に思ってしまった。何かを感じても何も感じなくても間違いじゃないのに、感想の報告にいちいちいろんな基準やバイアスがかかって、いったいなんのための行為なんだか…と急にばかばかしくなった。だからほとんどインターネットには記録しないことにした。その代わり、友人や先輩に報告するようになった。こっちのほうがちゃんと応答があって、伝える意義を感じられる。

インターネットの使い方を変えた別の大きな理由は、自分自身がインターネットの強くて一見「正しさ」を纏った言葉に耐えられなくなったから。それは過去の自分の言葉も含めて。わたしが求めている言葉はこれじゃないなと確信した。ここにはわたしのことを話せる言葉がないと思った。と同時に、そもそも無理に言葉にしようとしなくていいのかもしれないとも思った。言葉にすることはしんどいから。

あなたには誰からでも自分の秘密を守る権利があるよ(『違国日記』8巻)

安易に言葉にして公表してしまわないことでなんとかやっていけているという瞬間がたしかにある。これはわたしだけの真実だと思うことで、誰にも打ち明けないことで救われている瞬間があるのだ。そして、言葉にできない/しないことは非難されるべきことでも、克服すべきことでもない。

 

またあたらしい年が始まることにうんざりしつつ、粛々と、そこそこ元気にやっていければいいな。