何も損なわれていない

「欠如」ではないということ

たしか中学生の頃のこと。しんどかった部活を辞めて、自由に髪を伸ばせるようになり、友だちといるときに一人だけ大声で顧問や先輩に挨拶しなくてよくなった頃。ストレスフルな部活生活に見切りをつけ、解放感に満ち溢れていた。いわゆる「いつメン」的な友人3人と一緒に過ごす時間を増やせるようになっていた。とてもたのしかった、のだと思う。今思うと、あのときの自分は今とはまったく違う人間のように思えて、それなのにあのときの感情だけは鮮明で、なんだか不思議な感覚がある。

「いつメン」の一人が思春期にありがちな若めの教師に恋心のようなものを抱いていて、いつの頃からか学校生活での中心的な話題はその「恋バナ」になっていってしまった。その教師にわたしたちにしかわからないあだ名をつけ、「いま〇〇が何処どこにいたよ」「〇〇に手を振っちゃったよ」エトセトラ、そんな会話が日々の盛り上がる話題になっていった。その盛り上がりに内心ついていけなさを感じつつも、わたしは友人らと一緒にいることが好きだったし、もしかしたら若干の強迫観念はあったのかもしれないけど、一緒に居続けることを選んだ。友人らとそれ以外のしょうもない話題でケラケラ笑っていた記憶もあるし、「恋バナ」に友人らと同程度に興味があるように演じることがものすごく苦しかったかというと、そこまでではなかったように思う。それよりもわたしはくだらなさを笑い合えることが嬉しくて日々を過ごしていたのだと思う。

だんだんと雲行きが怪しくなっていったのはいつ頃からで何がきっかけだったのかはもはや覚えていない。特に何もきっかけがなくとも話の流れで自然とそうなってしまったのかもしれない。「いつメン」の一人はその教師を、ほかの二人はそれぞれ同級生とアイドルに恋心*1のようなものを抱き、各々で対象は異なりつつも同じような話題で同じように盛り上がることができるようになっていた。そんななか一人だけ盛り上がれなかったのがわたしだった。話題の端々でわたしが好きな人は誰なのかと問われるようになった。最初のうちは適当に濁したり流したりできていたけど、かえってそれがわたしが嘘をついている・隠しているように見えたらしく、本当は誰なのか、と聞かれるようになった。なんでそうなったのか覚えてないけど、わたしは好きな人をつくらなければと思い至り、話したこともない別のクラスの男子学生を名指した。そこからがほんとうに苦痛だった。誰でもいいやと思って挙げただけなのに、「勇気を出して話しかけてみなきゃ」「こっちからアタックしないと」といつの間にかわたしの応援団のようなものが組織されてしまい、それは卒業するときまで続いた。今思うと勝手に名前を出してしまったかれに申し訳なく思う。結局それらの応援が続くままに卒業式の日になり、もうどうせ高校は違うから会えないんだしと強く背中を押され、その人の第二ボタンだけをもらった。「いつメン」がやたら祝福してくれたのを覚えている。わたしも嬉しいふりをした。もらっておいてすぐに不用に思うのもなんだか申し訳ない気がして、そのボタンは結局20、21歳くらいまで取っておいた、はず。その後、実家の自室の整理を徹底的に行ったときに、ごめんなさい!と思いつつ処分させてもらった。

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なんで10年以上も前の記憶を遡ったかというと、20代になってから勉強してきたことや触れてきた物語のおかげで、あの頃の苦しさはわたし自身の未熟さによるものではないし、同じように誰かを特別に思えないことが誰かと比べて劣っているわけでもないことを何度も再確認してきて、あのときのあの感情はたぶん自分にとっての原体験だろうなと思ったから。わたし自身はそのようには名乗らないけれど、近年のaro/aceの可視化は自分にとって大きなことだった。

自分の在り方がおかしいわけではないと徐々に思えるようになっていけばいくほど、ハッピーな「多様性」を謳ってばかりいるこの社会は気持ち悪くて、理解してあげますよという生暖かい視線が心底嫌だった。そんな視線よりもほしかったのは、異性愛の実践や法的結びつきなんてなくとも安心して暮らせる制度だった。トレンドのように「LGBTQ」と大きな代名詞で生身の人間を切り分けていく無慈悲さも耐え難かった。名付けることに伴う分類も、わたしにとってはいまだに受け入れがたく、それゆえにあえて今も名乗らない。それよりも自分自身の言葉が必要だと思った。〜ではないという否定形において、自分を説明しようと思った。でも返ってくる反応は今までとなんら変わらず、自分が傷つくだけだった。そもそも説明しなければいけなくなるようなこの状況にうんざりした。いずれにせよ性愛中心主義的な社会では自分はどこか透明な存在に思えた。たしかにここにいるのに、自分を表す名前がないと途端に輪郭が溶けていくようだった。でもやっぱり名乗る気にもならなくて、というのがここ数年。

 

しばらく前に偶然読み切りの宮崎郁『ラウンドアバウト』を読み、多分中学生の自分がこんなふうにいってもらえたら本当に楽になっただろうなと思った。

お前がそういう意味で誰のことも特別にできなくたって…
それはお前に何かが欠けてるからじゃないし、だから殴られても仕方ないなんてことないだろ…
お前が考えてることは多分ずっとわかんないんだけど…
一番とか特別じゃなくても俺はお前が大事だよ
それはお前もわかるだろ…

誰しもが異性に恋愛感情を持つと思われていた狭い狭い学校社会において、異性の誰か一人だけに特別な好意を持つことができず、「恋バナ」にも乗れなかった自分はそうやって言ってほしかったのかもしれないって思った。全く異なる文脈で呪いのように言われてきた「冷めてる」「冷たい」というわたしに対する形容も相まって、自分は誰かを大切に思うことのできない人間なんだと思っていた。そうではないという力強い肯定がほしかったんだろうな。自分自身でもそう思うくらいには、この社会で「普通」と考えられている人間観と「異常」と考えられている人間観は強固に一人一人の価値観のなかに根付いているのだと思う。

完全に払拭できたわけではないけれど、昨今のaro/aceの声の力もあって、他者に肯定されたいという欲はあまりない。自分の中に沈澱し続ける内なる批判と格闘することはあっても、ちゃんと頭では自分は「異常」ではないと、そして「異常」か「普通」かと二分してくる社会のほうが異常であると理解できているから。

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灰になった今、どこへいく

査読結果が返ってきて、無事に受理された。リライトもなく、コメントを見ながら適宜修正という程度だった。つまり、来年論文として載ることが決定した。修論の内容を修正しながら整理しなおした論文。修論のときにもっとここをこうすれば…というようなことも思いつつ、書いているときは結構楽しくて、自分なりに可能性や希望を見据えながら書き上げたつもりだ。提出してからは解放感で京都を飛び出したのだけど、すっかり解放されすぎてというか、今は若干の燃え尽き症候群。指導教授からは、リライトなしは初だよ、よかったねぇ、ちゃんと伝えたいことが伝わってるじゃんと言われて、たぶん褒められたのだけど、どうにも釈然としない気持ちが残った。査読結果が返ってきてもう一度読み直したけど、なんだかつまらないというか、率直に飽きたと思ってしまう自分がいて悲しかった。自分が書いた文章だから余計にだろうけど、つまらない。ちょうどこれからをどうしようかなと悩んでいたタイミングでもあったから、やっぱりもう少し領域を広げる必要があるなと強く感じだ。それはとどのつまり、勉強すべき歴史や理論が増えるということだし、すぐには新しい論文は書けないということ。どのみち今のままじゃダメだなと自分が一番よくわかっていた。新しくルーティンを築き直すのはしばし時間がかかりそうだけど、やるしかないな。自分の年齢を考えてしまう日も多く、躊躇うことも残念ながら増えてきたけど、まだ大丈夫って言い聞かせながら足を動かし続けるしかない。

論文提出後の2週間くらいはすっかり怠けまくった。それも大事なことだったと思うようにしよう。

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レンズ豆のポロウ

購読しているid:meiguさんのレシピを見てから作りたくてウズウズしていたので、先日思い立って作ってみた。バスマティライスはもともと好物なんだけど、家で炊いたことがなく、今回が初挑戦。少しボソボソっとしてしまったのが悔やまれる。リベンジあるのみ。

 

はたして合うのだろうかと心配だったレーズンもいいアクセントになっていて、食事にレーズンてありなんだ!とびっくりした。しばらく水に浸けておいたのもよかった気がする。イラン料理(と自分でいっていいのかわからないけど)を作ったのは初めてで、普段感覚で料理している自分にとって、味の予想がつかないものを作るというのは想像以上にたのしかった。また時間があるときに知らない料理を作ってみたい。

meigukhnm.hatenablog.com

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うましかてを

10月の初めに母が(わたしが引っ越してきてから)初めて京都に来た。仕事が忙しかったり、父のこともあり、二人っきりで旅行的なことができたのはたぶん初めて。たのしくておいしい数日間だった。京都にいても今の自分には体験できない食体験もあり、贅沢三昧だった。


すばらしい体験だった然美の茶菓懐石に、cartaのコース料理。食べるたのしみを思い出した。普段自分でつくったものばかり食べているから、正直飽きもあるし、食べるのが大好きだったはずなのに熱量が下がっているのを実感していた。食べることがたのしいと思えるのは幸せなこと。

佐川美術館でガウディ展を観たり、琵琶湖をのんびり眺めたり、だらだらとおしゃべりもした。

こういう時間を母と取れるなんて思っていなかったからほんとうに嬉しかったし、また次もと約束できたのがよかった。身も心もすり減らしてばかりいたから、こういう時間はきっと母にとってもよかったんだと思う。夏に報告を受けたときも思ったけど、母が一人の人として生き直そうとしてくれているのが心底嬉しい。役割や義務(と思ってしまうこと)からではなく、生きたいように生きてほしい。

*1:わたしは恋心なるものが何たるかをわからないし、わたし自身の概念として言語化できない。もしかしたらあのときそれぞれが抱いていた気持ちはもっと多彩なもので一言に集約できないような何かだったかもしれないけど、わたしたちは幼かったし無知だった。わかりやすい言葉に飛びついていただけかもしれないけど、今となってはそれぞれの想いは知りようのないこと。