不定形

書いたものを読んでもらったり、人前で話したり、しばらく前に書いた自分の文章を校正したりしていた。読む相手が確実にいることを念頭においた文章は、どのような形式であれ、緊張するし怖い。読み手がいるということは幸福なことであるけれど、どのように受け取られるか、そもそも受け取ってもらえるかさえもわからないという不安を同時に抱え持つ。

わたしがいま選んでいる立場では、論文という形式の文章を多く読み書かねばならないが、『生きるためのフェミニズム』を読んで、やっぱりより多くの形式で文章を書けるようになりたいとも思った。かつての恩師に修論を読んでいただいたときに「学術書だけにとどめるのはもったいない。一般書も書けそうだよ」という言葉をもらったことが頭をよぎる。論文でこそ書けることもあれば、論文でない形式だからこそ書けることもある。

とはいえ、差し当たりわたしは論文のための訓練を積んでいかないといけない。論文は一定のルールさえ守れば誰にだって書ける文章だけど、やはりおもしろい論文というのはルールに則るだけでは書けない(異論もあるだろうけど)。どんなに短くとも、1本の論文を書くためにどれだけの労力と時間がかかるのかを知っている。だからこそ、おもしろい論文に出会ったときには胸が高まるし、もっと知りたくなるし、余白にたくさん書き込みたくなる。研究することやその成果を論文として書くことの暴力性に悩まされつつも、この場所や立場にしがみついているのは、そのおもしろさに虜になっている側面が確かにあるのだと思う(むろん、しがみつける特権には自覚的でありたいが)。

自分が書いたものに対する応答をもらえたことは、やはり幸福なことであった。というか、わたしが考えたいことを一緒に考えようとしてくれる態度自体がすでにうれしいものであった。わたし自身、いつまでしがみついていられるか全くもって未定だけど、自分が書いたものを携えて、人に会いにいきたい、座って言葉を交わし合いたい。

この道が続くのは続けと願ったから

うつくしい曲だった。深い敬意が感じられる曲。4年間の道のりの断片を見せてもらって、泣きそうになってしまう。

装丁もフォントもとてもすばらしかった。

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自分自身の成長の過程にはジブリ宮崎駿監督作品が常に傍にあった。なかでも『千と千尋の神隠し』はDVDとロマンアルバムを買ってもらって、何度も何度も繰り返し観て、毎度あの世界観に惹き込まれてきた。大人になったいまも変わらず。『ハウルの動く城』のときは、いまはもうなくなった地元の古い映画館に連れていってもらって、そのときの情景が頭にこびりついている。

10年の月日を経て、宮崎駿の新作を今回観たわけだけど、当然ながら大人になってから新作を観るのは初めてだった。中身については一切触れられないけど、とにかく話をしたくなる作品だった(後日先輩たちと解釈の話をたくさんできたので、満足。近々また観るつもり)。ただやっぱり込めたいメッセージはかなり明確なんだなぁという感じ。……書いてると、内容を話したくなってしまってだめだ!

meandyou.net

う〜〜ん。これをしたい!!もうずっとこういうことばっかり言っている。

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わたしの場合は「パートナーシップ」にこだわりがなく、有吉さんが言っているのと同じく、関係性を名づけていく行為がしっくりとこない。でもやっぱり人と生きたいという気持ちがある。それは未来の約束であったり、永続を仮担保するような契約である必要はなく、どこまでも「いま」を起点にしたものでありつづけるのだと思う。まあ、問題はこういうことをいきなり人に提起するだけの勇気が自分にはないということだな。

入院が決まった。わたしのではない。事後報告であり、それがありがたくも、同時に罪悪感のあることでもあった。距離感を慮ってくれるのは非常に助かるけど、ひとりにあの重圧感と不安を押し付けてしまって、申し訳なく思う。安心という言葉の似合う暮らしを営むことは並大抵のことではない。少なくともわたしたちにとってはそうだったように思う。自らが怯えずに、きちんと深呼吸できるような暮らしをすることはとても大事なことだったのだ。だけど勝手に一抜けしてしまったようで、それは何ら不自然なことではなく、むしろある意味自然で、わたしにとってとてつもなく大切な選択だったのだけど、これでよかったのかと自問自答してしまう自分もいる。今回の決定がこの先を変えるような何かになるかどうかは正直期待できないけど、すこしでも安心を手に入れた暮らしを営めるようになるといいと思う。『さんかく窓の外側は夜』の10巻を再読し、これでよかったはずだと自分に言い聞かせる。大丈夫。生まれ負わされたつながりよりも強いものはある。自分で選んで、大事にしているつながりがちゃんとわたしのなかにはある。大丈夫。

さんかく窓の外側は夜 10 (クロフネコミックス)

蓬莱山へ

ひとりで黙々と歩くことも、人とハァハァいいながら歩くことも、どっちも好きだ。立ち止まったときの景色と音と空気を共有できることは人といるからこその喜び。

急遽会えることになったひさしぶりのKちゃん

スキローの話で盛り上がれてたのしかった。解釈が異なる部分を知ることも、またひとつのたのしみ

約5年の歳月を経て、ようやくやりたかったことを始動した。ちゃんと形になったら、この場所にも書きたいな。この話をしはじめたときから、わたしたちはずっと場所をつくりたがっていた。これもきっとひとつの場所をつくる試み。ちゃんと形にして、それをつづけていくことが目標!