救われたりなんかしない

例の知らせを夕ごはんを食べているときに目にした。心臓が抉られるような痛みとはこういうときのことを言うのか、と。とにかく驚きに次ぐ驚きと、苦しさが襲ってきた。こんなこと起きてはいけなかった。ニュースにはならなくても、同じような道を辿ってしまう人が大勢いることを思うと、悔しくて、悲しくて、腹立たしくて、どうしようもなく苦しかった。社会の徹底した不寛容さがとことん嫌になって、絶望して、なんでこんな社会でこれからも生きなきゃいけないんだろうって涙が出た。生きていく意味はあるのかと、無意味な自問自答だと分かりきっているのに考え込んでしまった。わたしは基本的にひとりでいることを好む人間だけど、こういうときにひとりでいるのはかなり堪える。翌日はとにかくはやく人のいる場所に行きたくて研究室で長い時間を過ごしたけど、もうボロボロでふとした瞬間に涙はこぼれてくるし、うまく笑えないし、ため息ばかりついてしまった。そのせいか普段に増して音に敏感になってしまって、すこし大きい音が鳴り響くだけで心拍数がぐっとあがって、うまく息が吸えなくてさすがに参った。親しい人に助けを求めて、discordでつらつらとしんどさを共有した。帰り道は「ひとりでいられない!」といって友だちに夕飯を付き合ってもらい、時間を共有した。どうしてこんなにしんどいのに未来はつづいてしまうんだろうって、ほんとうにひさしぶりにメンタルの調子をがっつりと崩してしまった。2日ほどたって、まわりの人たちのおかげでようやく生活者として復活しつつある。でもこうやって簡単に復活できてしまうことが内心、申し訳なくなる(いったい誰に対する申し訳なさなんだろう)。

1週間くらいまえにも友だちと自分たちのいまとこれからについて話をしていた。自分のなかの複数の自分とそれぞれの乖離。婚姻制度には批判的だし、小さい人を産んだり育てたりすることも無理だろうと思っているけど、同時に自分と同世代の人たちを比較してくるしくなるのも事実。あれだけ婚姻関係のグロテスクさや、親子関係の呪いのようなものを経験してきたというのに、内心、結婚できたらいまの不安感がなくなるのだろうかと思ったりもしてしまう。年齢を強く意識してしまうというのもある。5年くらい前までは、「常識?そんなの知らん」って強気でいけてたのに、実際自分がこんなだったとは。いくら批判したところで、わたしもがっつり社会規範を内面化させながら生きてきたんだなと苦しいくらいに痛感している。社会規範からいかに逃れるか、ではなく社会規範のなかに自分がズブズブだ、ということを議論の出発点にしないといけない。いつか生活同伴者として誰かと共同生活をしたいとずっと思っているけど、自分が狭義の意味で自立できていないことが実際に動き出すのを踏みとどまらせている一因になっている。依存していない人が存在しないことも、ケア関係の概念も頭では理解しつつも、身近に「依存」から抜け出せない人がいる自分にとって、依存関係になることは恐怖だ。でも誰と一緒に生きていくかを決められるということは資本がある、すなわち選択肢があるということ。自分の未来がまったく描けないいま、どう足掻いてもそうはなれないなとおもう。その事実を事あるごとにつきつけられ、そのたびに寂しくてつらくなる。自分もちゃんと寂しさを感じるような人間であったことにやや驚く。

狭義の意味で自立できない者同士が共に生きることを肯定的に描いてくれる物語はあるのだろうか。生まれながらに背負わされたものと闘わなくてもいいし、病気を乗り越えなくてもいいし、ままならないままに生きていくことを肯定してほしい。

わたしはたくさんの物語に救われてきた、と思っていた。でも本当に?いまも好きな作品や大切に思っている作品はたくさんあるけど、いったいいつからわたしは「救われる」という基準で作品を享受するようになんかなってしまったのだろう。どれだけ好きな作品でもわたしの人生はそう簡単に救われたりなんかしない。どれだけ好きでも簡単に絶望は消え去らない。わたしはさみしいし、くるしいし、つらいけど、きっとどんなに素晴らしい作品もそれらの感情をなくしてはくれない。もう「救い」なんてものを自分以外の誰かや何かに求めるのはやめないといけない。どう足掻いたって自分で自分の舵をとらないといけなくて、まわりが真っ暗で何も見えなくても舵から手を離すことはできない、というかいつ手放すのかも自分で選択するしかないんだよなぁ。ことごとく人生が嫌になるし、これからも救われることはないのだろうけど、一瞬の逃避先として物語に熱中していくことでしかきっと未来には進めない。救われることはなくとも、きっと生かされてしまうんだろうなといまは思う。

絶望しながらも、生存して抵抗する。

まずは、生きること。 生き延びることで、抵抗運動もまた潰えずに生き延びることができる。逆に言えば、抵抗の意志を維持しながら、生きる営為そのものは、すでに革命への加担なのだ。だから、「革命」という言葉に「そんな過激な行為にはついていけない」と思った人も、心配は要らない。指一本、視線ひとつ動かせずとも権力への抵抗は可能であると、私は約束する。
今説いた「革命」は、一見孤独な営みに見える。しかし、目的を背負った時点で、同じ目的を背負った、誰かの背中を、私は/あなたは預かることになる。内向きの円ではない、外向きの円として、われらは共同戦線を構築できる。生きていることは苦しい。変わらないこの世が憎い。しかし何の力もない。そのようなわれらが、バラバラに生きて、バラバラに抗う。この蓄積が、必ず巨大な「変わり目」を生み出す。私はそう信じている。

高島鈴『布団の中から蜂起せよ—アナーカ・フェミニズムのための断章』p. 8

伝えたい言葉、言わなければならなかったことがいえず、一瞬にして踏みにじられたという恐怖のなかで、目撃したことを証言する人びとの姿を前にして、素通りすることができない、心がわしづかみにされる。同じ経験をすることはできないが、かたわらにいて、ただ待つ。すると、他者の過去のなかに現在の自分を言いあらわす言葉があったことに気がつく。 あなたの過去のなかに、未来の物語があったのだということに、はじめて気がつく。トラウマをめぐる物語が伝えようとするのは、語ることすらできなかった出来事、歴史のなかにうまく位置づけられなかった記憶をいかに聴くのかということである。

岩川ありさ『物語とトラウマ—クィアフェミニズム批評の可能性』p. 394

絶望にころされないようにするための記憶。

いつもの場所

新しい場所で再開してくれた店

会いにきてくれた友だちとのおいしい記録

いろんなことがしんどくなって、比叡山を登った

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往路2時間半、復路1時間

頂上!

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ハイキュー!!』にどハマりして生活が再構築されはじめている

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cocoon』がアニメ化するらしい。

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たぶんずっと同じようなことばかり考えている。でもそのときどきに出会った言葉や景色を残していたおかげで、<いま>という時間にうまく反響してくれていると思う。記録するということ。