つらつら

5/20

新しく好きになり始めた人たちのお祝い月間。新しく、とはいえ、かれこれ半年近くは追っている。今までその存在自体を知らなかったジャンルだったから、いったいどういう活動なのかを理解するだけでもある種の「勉強」が必要だったし、そこでの「共通語」を理解するのにも時間を要した。まだまだよくわからんなぁと思う部分はあったりするのだけど、とてもたのしい。

でも供給過多になりがちで、自分の生活や研究、労働とどう折り合いをつけてhandleしていくかが悩ましいところ。好きなことが多いというのは自分のいい部分だと思うし、事実、いまよりも不安定なメンタルに翻弄されていたときには随分救われもした。ただ、少し前から生活や労働、少し研究に対しても意欲が減退していることも相まって(五月病か?)、受動的な趣味にばかり傾きがちだ。これはあまりよろしくないなぁと自覚しているのだけど、気候が急に暑くなってきていることが更なる追い討ちとなって、引きこもり度が増している。なるべく無理にでも机の前に座って、史料を広げたり論文をパラパラしてみたり、本の1行目だけを読んでみるなんてことをしている。早くリズムを戻していきたい。1日1日迫ってくる2つの締め切りも嫌すぎるのだけど、締め切りに発破をかけられているくらいがいいのかもしれない。論文執筆のために読み直している本・論文のほかには、酒井隆史『暴力の哲学』を読み始めている。

暴力の哲学 (河出文庫)

GWにセールをやっていたので、かなり前からほしいと思っていたnano formerを購入し、今日届いた。コーヒー愛好家なので、わたしの朝は必ず一杯のドリップコーヒーを淹れることから始まる。(これを人に言うと、ある種の揶揄を含んだ「丁寧な生活〜!」と言われるのだけど、完全に習慣というか、朝の儀式みたいな部分もあるから、当の本人は「丁寧」とか思ってない。てか、こういう言い方、本当に嫌い)朝時間があるときや朝以外でコーヒーを淹れるときは、ビアレッティのマキネッタ(一人分だけど2カップ用を使ってる)でエスプレッソを抽出して、たいていはアイスラテにして飲んでいる。というのも、ホットにしたくてもミルクフォーマーがなかったから。

前々からミルクフォーマーは買いたかったのだけど、レビューを見るとなかなかほしいと思えるものがなかった。そんなときに見つけたのがnano formerだった。調べた感じ、圧倒的に仕上がりがよさそうだった。ただネックなのは値段。他のミルクフォーマーと比べるとかなり高価。そんなわけで、どうしようかな〜という状態が続いていたのだ。何かの折でショップの公式ラインを登録していたらしく、GWあたりにセールのお知らせが舞い込んだ。「これは買うなら今では?!」と思い、満を持して購入。

開封後、さっそく使っていたはいいものの、初めからうまくいくわけもなく、あまりキメの細いフォームはできなかった。修行あるのみ。

いただいたカップの出番

なんとなくの気分でブログのテーマを変更。

 


5/21

連日暑くて参ってしまう。もうすでに秋になってほしい。夏をスキップしてほしい。京都の夏が嫌すぎる。

昨夜、久しぶりにネイルをした。甘皮ケアとかは一応月一くらいでやっていたけど、色を塗ったのは本当に久しぶり。手持ちのマニキュアがあまり速乾性のないものっぽくて、どれだけ綺麗に塗れても気づかぬうちにヨレてうんざりして即落とすということが何度か続いたことが原因で、すっかりご無沙汰だった。いまの職場が少しお堅い系というのもあって、派手な色は塗れないので、グレージュっぽい色を選択。朝起きるとやっぱりシワができていた。ややガクッときたけど、基本が大雑把だからか、「ま、いっか」というスタンス。

連日宅配便がやってくる。母がお菓子屋さんに頼んでくれた焼き菓子便と、先月の受注で注文していた絵津鼓先生のポストカード&スウェット。

今か今かと待ち侘びていたからうれしい。大切な作品、『メロンの味』の中城くんと木内さん。お犬さまと3人で生活しているんですか〜!ポストカードの質感がとてもよくて、気に入っている。絵津鼓先生、次はどんな作品をつくるんだろう。今までの作品のキャラクターたちの新作グッズも期待。

メロンの味 上 (HertZ&CRAFT)メロンの味 下 (HertZ&CRAFT)

先週からスキンケア熱が再燃して(ときどきある)、ちょっと収入も増えたし!と思って、気になっていたものたちを購入してしまった。季節も変わりつつあるし、夏仕様のグッズを購入した。久しぶりの高額出費でドキドキしてしまう。自分の将来を考えるならほんとうは貯蓄にまわすか研究費(主に旅費)に回すべきだろうとはわかっているんだけど、たまにはいいよね?、いやダメかなぁという競り合う気持ちのまま数日を過ごし、本日えいやっとポチってしまった。節約と労働をがんばるしかない。

10代の頃、まだ一人暮らしを始めてすぐの頃はお金で失敗することも多くて、親に怒られたりすることもままあった。何にどれだけ使うのが適切で、どの程度節約するべきかがわかっていなかった。その後もいろんな方法を試みながら、ここ3-4年くらいはアプリで支出管理をきっちりすることで落ち着いている。勝手にグラフ化してくれるのも、トータルを計算してくれるのも助かっている。多種多様なアプリがあるのだろうけど、わたしはmoney forwardがいまのところ一番使いやすいかな。

今日は基本的には一日中家で作業。というか、今日に限らずゼミや労働のない日は家にいることが多い。去年のように研究室へ行きたい気持ちもあるのだけど、新しい研究室がまだ自分にフィットしていないというか、単純にゼミのメンバーが複数人いて気が散りやすいというのもあって、足が遠のいている。あとは単純に家の作業環境を整えたことも理由の一つだと思う。ミニテーブルで数時間作業するのは辛い!ということがよくわかった2年間だったので、年度初めにようやく作業用の新しい机と椅子を購入し、古いものは少し手入れをしてからメルカリに出した。2つとも売れてよかった。

作業の集中が途切れたタイミング(まだ五月病継続中っぽいので、途切れまくり……)で、借りていたティファンヌ・リヴィエール『博論日記』を読む。圧倒的鬱な院生日記で、さすがにこんなん無理だろと逆に笑えてくる。ただ院生を取り巻く現在の状況を思えば、笑えないところもあって、しんどい。これをいったいどういう意図で貸してくれたのかを知りたい。

博論日記

買ってから読んでいなかった『shrink〜精神科医ヨワイ〜9』も読んだ。新刊は未読。自分自身の置かれている状況が精神疾患と切り離せないということもあって、ときどき読んでいる。泣きそうになることもあって、ヨワイ先生現実にいてくれよと何度も思う。フィクションとしての救いもある反面、現実を生きなければならない自分にとっては、あまりにもすっきりとストーリーが展開しすぎていると思う部分もある。とはいえ、こういう漫画があること(しかもまだ連載が続いていること)はほんとうに大事だとしみじみ思う。

Shrink~精神科医ヨワイ~ 9 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

ときどき、鶴見俊輔日本の地下水—ちいさなメディアから』の気になるタイトルの節だけ読むということをしている。今日は「複雑のいましめ—『戦争抵抗者』」を。そのあとも適当にパラパラとめくりながら、解説を読んだ。

確かなのは、かつての「議論」のありかたには、始まりと終わりがはっきりとあった、ということである。つまり、何事にも輪郭があった。雑誌には所定のページ数があって、原稿を書くには、約束の分量を守らねばならなかった。これを編集し、印刷にまわし、製本するためには、それぞれに締め切りの日時が伴う。それを互いに守りながら交わしあうのが「議論」であって、言語の「抽象能力」というべきものが、そこでの表現を支えてきた。
現在のSNS上での際限のないやりとりには、始まりと終わりが消え入りかけているのではないか?こうしたメディア上での情報の「容量」は、実質的な無限大への拡大を続ける。また、メディアへの「常時接続」が現実のものとなり、人間と各種メディアはすでに「お互いの神経が結びあわせたような状態」となっている。ここでは絶え間のない情報交換、安否確認、あるいは批難の応酬のようなことはなされるが、すでにそれらはこまやかな「議論」とは違ったものになっている。こうした言語が、「抽象能力」を欠いているのは、確かなように映る。(pp. 350-351)

とりわけ現在のTwitterという空間への違和感や居心地の悪さというのはこういうことなのかもしれないなあと、妙に腑に落ちた(これだけではないけれども)。わたしが使い始めた10年以上前のTwitterはそもそも「議論」をする場所ではなかったからこその居心地のよさみたいなものがあったと思う。まあ、Twitter云々は合わなきゃ使わなければいいだけの話だからいいんだけど、要はいま現在の時代における「議論」をどう確保して、いかに継続していけるかということなんだろうな。

 


5/22

終日労働。徐々に垣間見えるようになった上司らの差別的なまなざしがしんどい。それに対してどう反応していくのか、まだ試行錯誤の途上だ。

休憩時間には作業の続きと栗原康『アナキズム—一丸となってバラバラに生きろ』を読んだ。第1章のエコ・アナキズムについての文章が、わりと自分のなかで腑に落ちた。10代から20代のはじめにかけて、複数の理由からヴィーガンの生活を6年ほど続けていたのだけど、だんだんと感じていった違和感や息苦しさみたいなもの、もっと言ってしまえば「宗教」的な流れが怖くなって徐々にやめていくことになった*1。東京に暮らしていたがゆえに、選択の面では大きな困難はなかったけど、とはいえ、今よりもまだまだヴィーガンという選択肢自体がマイナーだったし、実践している人も一握りだった。わたしが最初に感じた違和感は、スピリチュアル的なこととの結びつきの強さだった。そこには「なぜ?」を挟む余地がなかった。ヴィーガンとして生きていた人の多くは、環境問題や動物の殺傷に問題意識を持っていて、その際には「なぜ?どうして?」と批判的に考えられていたはずなのに、スピリチュアルな話題になると途端に全肯定になってしまうのだ。わたしにはそれが解せなかった。この人たちは、自分の「正しさ」を疑わなかった。それもわたしには怖いことだった。わたしの場合は、「いつだってベストな選択はできないし、ベターだとそのとき思えたものをその都度選択するしかない」という消極的態度だったからこそ、尚更強力な「正しさ」として見えていたのかもしれないけど。

なにがいいたかったのかというと、こういうのを倫理的にツメちゃダメなんだってことだ。もちろん「カネによる支配」はイヤなんだ。カネがなきゃ生きていけない、カネをくれる人がいなきゃ生きていけない、おっきな企業がなくちゃ生きていけないって、そうおもわされちまったら、カネをもらうためにはなんでもいうことをききますよ、ハハァーってなっちまって、奴隷みたいな人生をしいられる。それが市民のモラルだ、ただしい生きかたなんだっていわれてね。で、そんなのクソだぜっておもうから、カネなんかなくても生きていける、ウーラーッ!って、不食でも自給自足でもマック焼き討ちでもなんでもやって、イヨーシッ、オレたちいけるぜっていって、力や自信をとりもどしたりするわけだし、それはそれでだいじなことなのだが、でもだからといって、そこに逆ばりのモラルをたてるようじゃ、ダメなんだってことだ。(pp. 32-33)

いやあ、それなんよな。現状に対して反抗しているようで、実のところ対極の倫理を作り出して、そこに「正しさ」という強力な力を持たせて、それに従順なだけ。中身の差はあれ、やっていることは同じなのかもなと思った。それが過去の自分の息苦しさの一因であろうし、同時に自分もそういう面があったんだろうという反省もある。

それにしても、栗原のこの文体が独特で、これは読むものというより声に出すものという感じがする。目を使って読むと、だんだんとテンションについていけなくなるときがある。目からの情報と、耳からの情報の差かもしれない。

アナキズム――一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)

 


5/23

・午前中は荷物の受け取りと、某申請書の修正作業。コメントが入った箇所以外も改めて読み直して、ちょこちょこ文言を変えたりしている。

・午後は久しぶりに研究室へ行った。やっぱり集中できる度合いが段違いで、わたしの場合は物理的に場所を変えるということが集中のスイッチになっているのかもしれないなと実感した。

・思っていたよりも今日は気温が低くて、体調を崩しそうな気がした。

・たのしみにしていたスキンケア用品が届いた。全体的に爽快感がキーワードのアイテム。こうして考えてみると、わたしは着飾ることよりもケアをすることのほうが好きらしい。肌は敏感肌で昔からトラブルが多かったし、髪質も量が多くて硬いという悩みがあって、そういう負の感覚が強い部分ほど念入りな手入れをしている気がする。

 


5/24

起きようと思っていた時間より1時間遅れて起床。6時間くらいの睡眠でやっていける人が羨ましい。ロングスリーパーなので、最低でも7時間は確保したいし、できれば8時間寝たい、というかそれくらい寝ないと不調。

朝食を食べながらNannaのGodzillaとHow To Start Gardenを聴く。OMAMとしての活動も大好きだけど、ソロにはソロのよさがある。作り出す音の美しさとしっとりとした歌詞が沁みる。

youtu.be

youtu.be

昨日届いたフェイスポリッシャーをさっそく朝の洗顔で使ってみた。ミントゆえの爽快感にハマりそう。スクラブは予想以上に荒かったけど、あまりつっぱり感やヒリつきはないから大丈夫そう。

この間届いた絵津鼓先生のスウェットを着た!昨日から微妙に肌寒いから、ちょうどいい。

今日のゼミの先輩の報告がとてもよかった。なぜその対象を研究しようと思うのか。研究という行為は一見自己の外を観察しているようでいて、その対象の中に自分の影を見ることがあるという話にすとんと納得いった。よく指導教授が話す、竹村和子さんの言葉と見事にリンクしていた。

研究とは、「まだ見ぬ地平」を探ることだと思います。「まだ見ぬ地平」とは、研究対象であり、かつ自分自身のことです。人文系はとくに自分自身が重要だと思います。なぜある問題に興味をもつか。それは、それに反響している自分がいるからです。そのときどきに論文として発表するものは、たとえ稚拙なものであろうとも、自分を押し広げるという意味で、大きな可能性を秘めていると思います。
小森陽一監修(2003)『研究する意味』 

一喜一憂してしまうことも多いけど、ゼミに参加すると研究する意義を感じれることが多くて、励みになる。来年再来年、どうなるかなんてわからないけど、不安は可能性でもあるのだから、踏ん張っていきたい、といまは思っている。

 


5/25

余裕を持って準備しようと思っていたレジュメは結局ギリギリになってしまった。一応ちゃんと形になってよかった。他研究科の授業は色んな意味で為になっている。優秀だ〜と思わず唸ってしまうような人たちが集まっていて、(よくないのは重々承知で)多少の劣等感は感じてしまうけど、がんばろうと鼓舞されるような感じもある。

たのしみにしていたSさんとの約束。いつ会ってもたのしいな〜、ほんとうに!「大型」と「O型」で違うことを指してるのに途中まで会話が噛み合ってしまって大爆笑。くだらないことにケラケラ笑う時間が一番たのしい。たのしすぎて一文に一度は「たのしい」と言ってしまっている。

お互いにチェックしていた(けど行く機会のなかった)カフェで集合。

個人的にSさんとは似ている部分が多いなと思っていて、感覚的に「わかる!」ということがとても多い。ふと、韓国で再会した友だちのSちゃんとの会話を思い出した。「友だちになるときって、別に趣味が合っているからとかじゃないよね」、「趣味が同じかどうかは正直どうでもいい」という話。友だちになるときって、きっかけが趣味ということはあっても、結局人間性だよねという結論に落ち着いた。まじでそうだと思う。Sさんとは共通の趣味もあるけど、それはきっかけに過ぎなくて、わたしが似ているなと思うのも性格的な部分。そういえば、好きなゲーム配信者さんが前に雑談で視聴者の恋愛相談に乗ってたときに「好きなことが一緒の人より、嫌いなことが一緒の人の方がいい」という話をしてたんだけど、まじでそうなんですよ。「好きなことはこの先変わる可能性はあるけど、嫌いなことってそうそう変わらなくない?」と言ってて、めっちゃ頷いた。たぶん、わたしとSさんも「それは無理です」というラインがかなり近いんだと思う。だから一緒にいて楽だし、たのしいし、安心していられる。いまはそういうモチベーションがあんまりないけど、Sさんみたいな人と出会えたという意味では、やっぱりインターネット最高!

夜はとても久しぶりの飲茶(とお粥)。いろいろ注文してふたりでシェアした。いいお店。中国茶の専門店とかも行ってみたいな。

このニラ饅頭、めちゃめちゃおいしかった……

 


5/26
講義、労働、好きな人たちのお祝い事の3点セットの日。講義は聴講という形で参加している。アナキズムについて考えているのだけど、おもろいですわ。他学生の意見が「へ〜」「なるほど」と思うものが多くて、あっという間の90分だった。

労働はなんだかやたら忙しかった。時間にルーズな人が多い日で、そのせいで後半にいくにつれて忙しさが増していった。隣の部屋からはクレーマーっぽい声も聞こえてきた。こういうときの対応とかできないし、当たってしまう日がこないといいのだけど。

帰宅後、地震があったことを知る。2011年の次くらいに大きくて、12年前の記憶が蘇ってきて怖くなって急いで連絡した。親も3匹も地震のときはびっくりしたらしいが、意外とあっけらかんとしていて安心した。多少物は落ちたらしいけど、そんなにひどくなかったらしい。住む土地がこれだけ離れるということは、何かあってもすぐに気づけないということなんだなと痛感した。駆けつけられないこと以上に、自分が呑気にしているときに身近な人たちが災厄に飲み込まれているかもしれない、そしてそのことにリアルタイムで気づけないかもしれないことに強い恐怖がある。自分に何か災厄が訪れることよりも、自分のまわりの人や動物に何かがあったかもしれないと心配することのほうがよっぽどしんどいし、苦しい。関西に来てから地震に遭遇する頻度がぐっと減って、つい地震の怖さを忘れてしまうけど、きっかけがあるとすぐにあの身体がこわばる感じが蘇る。余震のときの低い地響きのような音はいまも脳裏に焼きついている。最近はどこもかしこも地震が多くて、ドカンと大きいのが来るのではないかと不安になってしまうな。

5月のお祝い事、最後の日。アッアッと言葉を失くし思わず涙ぐんでしまう演出があった。だからあなたが最後を飾ったんだねと納得。準備も大変だったろうな。本人たちも、携わったスタッフさんもお疲れ様でした。これからもきっと楽しいことをたくさん仕掛けてくれる気がする。余韻が引かないし、来週からは金曜日のたのしみがなくなってしまうのかと思うと、早速ロス。ファンアートなどを見漁って、就寝。

 


5/27

締め切り間近になってあくせくしている反面、思うように筆が進まない。ダメだったら謝罪メールをいれるしかないなと諦めの境地になってきている。

anond.hatelabo.jp

こういう話はきっと今までにもあったのだろうし、今もきっと思っている以上にあるんじゃないかなと思う。わたしの母はわりとストレートにわたしら子どもに対して「子ども産んでよかった!ありがとうね」と言ってくる人なんだけど、わたしや兄がもっとうんと小さいときの母だったら、あるいは同居していた祖父母との関係がよくなかったら、もしも男児が産まれていなかったら(絶対そういうことを期待する「家」だろうから)…エトセトラ、そういう母ではなかったかもしれないよなとは思う。産んだ人間に対する感情と、自身が「母親」であること、もっといってしまえば「よい母親」であることを期待されることに付随する感情とは別々にわけて議論する必要がある。ちょうど最近リブについて話をしていたこともあって、ここは結構つなげて議論を展開できるのではないかと思うなど。

忙しくてティアキンを全然進められなくてもどかしい。でもティアキンをやるということは時間が溶けていくということを意味するので、もうしばらくは触れられないな。欲ばっかり溜まる。さっさと片付けるべき締め切りもぜんぜん進まない。しょうもない。何もできなくても腹は減るし眠くもなる。

定期的な通院。自分としては少しずつ変化があるように思うのだけど、医師は「うーん、これ以上やってもダメなら手術かな」とあっさり。もともと長期戦だと思ってこっちは通っているんだが。手術費はバカにならないし、調べた限り、あまりいい予後が見通せないというか、費用対効果がうすい。最低でも1年はがんばろうと思っているけど、医師はそういう感じではないのかも。調べれば調べるほど気持ちが沈んでいくから、なんだかなぁって。

 


5/28

・朝ごはんに久しぶりにオーバーナイトオーツを食べた。ちょうどオーツミルクも買っていたから、オーツ×オーツ。暑くなってくるとこういうもののほうが食べやすい。

・締め切りがひと段落して、お互いの都合を合わせられたら久しぶりにポッドキャストの収録したいな。一緒に話したいことがたくさんある。あまりトータルでできてる回数は多くないし、頻繁に間隔が空きがちだけど、細々とでもふたりで話したことを開いていける場所を確保しておくことには意味があるのだろうと思う。ポッドキャストにかぎらず、研究においても、場を開いていきたいという想いが強い。一緒に場をつくれる人と出会うために論文を書きたいという気持ち。

・ちゃんと人と関わり合いたいなと思う。関係していくことに恐れたくないし、怠惰でもありたくない。

 


5/29-5/31

論文を書いていた。それ以外の記憶がない。procrastinationやめたい。

 


6/1

前日の就寝時間が2時半をまわっていたため、1日をとおして身体がだるく、頭もポンコツだった。午前中は時間に余裕があったため、一応睡眠時間は確保しているのだけど、とにかく絶不調。ロングスリーパーなので、トータルの時間が大事だと思っていたけど、睡眠のリズムのほうが大事かもしれない、と思った。

いろいろと反省すべき点はあるにせよ、一応は締切を乗り切ったということで、しばらく前に買ったまま読めていなかった、『ひらやすみ5』を。今回はしんどい内容だった。

ひらやすみ(5) (ビッグコミックス)

 


6/2

よく寝た。多すぎるくらい寝た。少し前に出した申請書の結果が悪く、落ち込んでいる夢を見た。先が不安になるような夢だなあ。各所へのメールの返信を済ませ、母が送ってくれたパンで朝食。母が何かと食べ物を送ってくれるので、冷凍庫がパンパンになりつつある。ありがたいなと思う反面、申し訳ないなとも思う。

掃除、洗濯を終え、作業開始。一応5月半ばのように、「読めない!考えられない!」という状態は脱してきたものの、台風の影響でめずらしく頭痛が出てしまって、あまり集中はできなかった。普段から天気に左右されやすい体質ではあるのだけど、大抵は身体の強い怠さのみの症状で、頭痛が出ることはめったにない。今年はずっと天候がおかしくて、地震も多いし、いやだなぁ。

作業中には、Lo-fi系の音楽かジブリメドレーを聴くことが多いのだけど、今日はブレワイのサントラを。ちなみにブレワイはクリアし、いまはティアキンをたのしんでいる。締切をいったん終えたことをいいことに、ティアキン再開しつつある。ゼルダは最強。

youtu.be

 


6/3

遅ればせながら『ブランチライン』の新刊が出ることを知る。うれしい。池辺葵作品はどれも大切な作品。

読みたい論考があり、図書館で『ユリイカ』(2022年7月号)を読んでいたのだけど、結構な量を手元に置きたかったので結局購入することにした。ここで言及されているアレクシエーヴィチの新刊はいつ出るんだろう。

ユリイカ2022年7月号 特集=スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ -『戦争は女の顔をしていない』『チェルノブイリの祈り』『セカンドハンドの時代』…耳の作家、声による文学-


6/4

母の誕生日。母にとって節目の年であり、感慨深いものがあった。親の年齢を考えるようになったのも、自分が大人になっている証拠なんだなと思う。10年、いや5年先でさえももしかしたら今までとはまったく違う関係性になっているのかもしれない。そんなことを真剣に考えるような歳になったということだ。この5年を考えてみても、あまりにも血縁家族それぞれが激動の日々だったし、変化が大きすぎる日々だった。そしてそれはまったく喜ばしくない変化ばかりだった。壮絶すぎたし、精神的負荷が大きくて物理的に身体が削られていった。自分でもさすがに病気を疑ったほどだった。距離が再度離れたことで回復した部分はあるけど、罪悪感のようなものは以前よりも増してきて、自分が変わってしまったことをたしかに感じた。あまりいい思い出のない日々だったけど、次の5年はよいものになるといい。それはわたしにとってもそうだし、母にとってもそうだ。母が「母」や「妻」としてではなく、一人の人として好きなように生きられるといいし、納得のいく選択をしてくれればと思う。

 


6/6

『違国日記』の映画化が決まった。主演はガッキーこと新垣結衣さん。複雑な感情だ。ガッキーは好きだし、槙生を演じることにわたしはそんなに齟齬がないと思っているけど、それでも、である。ヒットした漫画がことごとく実写化される流れはなんなんだろう。1万歩譲って、ドラマであれば削るエピソードは少なかっただろうけど、映画はちょっと、ね。ドラマにはドラマの、映画には映画の、漫画には漫画の、アニメにはアニメの、それぞれの媒体にそれぞれのよさがあるはずなのに。実写化への批判は常に付きまとうものだと思うけど、結局のところ「見ない」に限るのだろうな。とくに『違国日記』は。わたしにはあまりにもこの作品が大切すぎる。映画化することが決まっても、漫画『違国日記』を「原作」と呼ぶことは憚られる。「原作」もなにも、『違国日記』はこれしかないし、これが『違国日記』なんだと思っている。映画の製作陣には、ほんとに申し訳ないんだけれども。

 


6/8

久しぶりにフォローアップへ。同じ病気を持っているからこそ話せることというのは確かにあるんだと再認識。同情や心配、はたまた偏見ではなく、単純な困りごとを気軽に話せるというのは結構大事。

 


6/10

約2年、新装オープンを心待ちにしていたお店へ。相変わらず物腰柔らかなご店主と、ゆったり流れていく時間、細かなところまでこだわりを感じる内装。長い時間をかけて準備していただけあるなぁと思った。ここのアイスコーヒーが以前から好きだったのだけど、やっぱりおいしかった。ついつい長居してしまう。以前の店舗よりもだいぶ行きやすくなった、というか思いっきり通学路なので、とてもうれしい。これからも通っちゃお。通っている/通っていた店が京都に2つ、東京に1つあることは自分にとって大きな心の拠り所だ。とどまりたい/戻りたい場所があることは幸せなことよ。

 


6/11

直前まで購入するか迷っていたライブ配信を購入することにした。このくらいの金額をさらっと出せるようになりたいなと思うけど、いまの自分は生活をちょっとがんばらないといけない。でも、やっぱり見れてよかった。かれのトークのうまさが際立っていて、その世界観にしっかりと没入してのれるファンたちもすごいなぁと思った。たのしくてあっという間の2時間だった。

定期的に通っている整骨院。いいんだけど、通い続けることがいいことなのかわからなくなってきた。先生もスタッフさんも感じがよくていいんだけど、自分にとっては高い費用を払いながら通うことがベストなのか。以前のように体の痛みで吐き気を覚えるようなことも、呼吸のしにくさを感じることもなくなってきたけど、依然として“よい”状態には持って行けていない。よくなってきた人には通う頻度を減らしていいことを伝えてくれるらしいんだけど、全然その域に到達していないらしく、お金もそうだけど時間的にも厳しくなってきている。どうしたものか。

 


6/12

『ブランチライン』の新刊をようやく購入した。巻数が2桁にいっていない漫画は、たいてい新刊が出ると最初から読み直して、ストーリーに没入してから新刊を読むことにしているので、今回もそのように。池辺先生は繊細な感情の動きを描くのがほんとうに上手くて、今回もすばらしい物語だった。感想を文字にしていくことが難しくて、久しぶりに漫画読書会でもして人と直接話しながらこの物語について考えたいなと思った。

ブランチライン(5)【電子限定特典付】 (FEEL COMICS swing)

 


6/13

大事な人たちの10周年。二桁になるとなんだか今までの周年とはまた違う、別段の響きがある。わたしはといえば、丸一日労働だったわけだけど、心の片隅で祝福の気持ちは忘れなかった。特別な日も、特別じゃない日も、真摯に言葉と気持ちを届けようとしてくれるかれらが大好きだ。かれらの活動年数の6割を共に過ごせているのかと思うと長いような気もするし、他方で「オタク」かといえば、そういう自称はしにくいし、なかなかファンダムの多数派のまなざしには耐えきれなかったりするので、なんともいえないのだけど、わたしはわたしなりにかれらと共に生きてきた。同世代ということもあってか、いろいろと思うことは多い。同じように一年一年を歩んできて、少しずつ「若さ」という尖鋭さの角を削り(ときに削られ)、新たに気づいた美しさもや喜びも、残酷なまでの現実や人間の愚かさも、わたし自身もかれらと共に変化をしてきたのだと思う。むろん、わたしの見ている景色とかれらの見ている景色はまったくもって違うのかもしれないけど、かれらの言葉が響く自分がいるということは、違うとは断言できないということなのだとも思う。

조금씩 어른이 되어가며 세상엔 말과 글만으론 설명될 수 없는 것들이 참 많다는 거,

그리고 변하지 않을 것만 같던 것들도 언젠가 변한다는 것을 배웠습니다.

또한이름하나의 탄생에는 너무나 많은 이들의 힘과 사랑이 필요하다는 것도요.

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ほんとうにそうだね。言葉によっては説明しつくせない領域がいつもある。とりわけ、かれらがかれらであるがゆえに発せない言葉も言い尽くせない感情も数多く存在するのだろう。それでもわたしは、かれらが限られた言葉に込めようとしてくれている広大な感情に想いを馳せたいし、信じたいと思っている。

節目を迎えたわけだけど、また未来を言及してくれたことをありがたく思う。来年も再来年もその先も、お互い元気でいましょう。またこの世界のどこかで会えることを願って。

 


6/14

ゼミの合間に先輩2人とお昼ごはんを食べに行った。普段、特別な予定の日以外は基本的に外食や買い食いはせず、自炊ばかりしているから、こういうその日のノリで食べにいくのは本当に久しぶりだった。ほんとうはお弁当を作ってきてたんだけど、先輩たちと話したいなと思って、お弁当は夜に回すことにした(冷房の部屋に置いておけば、まだ大丈夫だけど、そろそろ季節的にこういうことは難しくなってくるな)。教授やゼミの人の意外な話を聞いて、意外と身近にいる人たちのこと何にも知らないんだなと思ったけど、なんだか人間ぽさを垣間見たようでもあり、おもしろい。ちょうどわれわれ3人とも出身地は東・西・その間という感じにばらけていて、「方言」の話になった。東京にいた頃は自分が東関東出身ということもあってそんなに盛り上がらなかったけど、いまは自分の喋り方もひとつの種類としてカウントされるから、それがなかなかおもしろい。どういう話し方を自分のアイデンティティとしているか、その喋り方をするとどんな自分が現れるのかという話は結構印象的だった。わたしはわたしの喋り方についてたいして考えたことがなく、ましてやアイデンティティとして喋り方を捉えたこともなかった。自分を客観視することは不可能だけど、わたしはいったいどのような人として映っていて、どのような喋り方をしているんだろう。

今日の速報をみて、またこの社会が明確にある方向へと進んでいるように感じた。いや、今まで地下にマグマのように溜まっていたものがほんの少し地表に溢れ出ただけなのかもしれない。どうなっていくんだろうという不安と、遠く離れた地で今日も殺し/殺されの関係が続いていること、それがさまざまな「正義」の形をまとって擁護されたり非難されたりしていることを想う。

 


6/15

大切な人の誕生日。朝、メッセージを送った。いろんな考え方があるけれど、やっぱりわたしは大事な人が生まれて、今も生きのびてくれて、わたしと関係を持ってくれていることがとてもありがたいことだと思っているから、祝いたいと思っちゃう。Iちゃん含め、何人かの友だちはきっとこれから先も長く友だちなんだろうなと思う。未来に絶対はないけれど、簡単にそう思えるくらいには信頼している。わたしはわたしのことを人付き合いが苦手なほうだと思ってきたし、いまもそう思っているけど、これだけ信頼できる友だちが複数いることがなんだか不思議な感じがする。自分と関わって、関わりつづけてくれて、ありがとう。

午後からはSさんと会って、来月の予定と夏のお楽しみについて決めた。一緒にできることや行ける場所が広がりつつあって、とてもうれしく思う。

水出しコーヒーとレモンケーキ

来月の予定もとても楽しみだけど(晴れてくれ!!)、なんといっても夏の予定に心躍らせてしまうよね。わたしもあの場所へいくのはおよそ10年ぶりで(近郊へは大学生のときにひとりでふらふらしにいったのだけど)、あのときの楽しさをSさんと一緒に共有できるのがたのしみすぎる。夏も1本締め切りがあるのだけど、それさえ終わらせれば超絶楽しみが待っていると思えば、嫌いな夏も乗り切れそう。

思っていたのとはちょい違ったビリヤニ

最近Apple Watchがほしくて、Sさんに使用感などを聞く。基本的にApple製品を好んで使っているからAppleで、と思ってたけど、充電の短さと値段の高さがネックだ。Apple Watchを買う前に、もっと安価なスマートウォッチで試してみようかなと思って、いくつか検討中。

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このあたりを試用してみてもいいんじゃないかなと思っている。それにしても最近物欲がとどまるところを知らずに増殖していてちょっと困っている。夏に向けて気を引きしめないと。

 


6/16

昨晩からやや体調が悪い。喉の痛みと身体のだるさがひどくて、なんとなく風邪の引き始めのような感じ。なるべく取り繕ったにもかかわらず、午前中の整骨院で「大丈夫ですか?疲れてます?」と言われた。自分ではあまり顔に感情が出ないほうだと思っていたのだけど、体調の変化は出てしまうらしかった。首が昨晩からしんどくて、ぎりぎり吐くまでは至らなかったけど、五感が敏感になってしまうせいで匂いによってはウッときてしまうような状態。身体を整えてもらったからか、幾分マシになった状態で講義へ。悪化はしなかったけど、あまり元気でもなかったので、“無”だった。午後からは労働。あまり忙しくなかったのが救いだった。

 


6/17

午前中いっぱいはゆっくり休もうと決めていたが、休んだらすっかりダラダラしてしまってダメだった。

家事をしながらいつもの雑談配信を聴いていたら、パニック発作(だったかもしれない)話があって、なんだかめちゃ気持ちが楽になった。わたしも診断は受けたわけじゃないから断定できないけど、自分がそういう状態になるときの条件がある程度わかっていて、その状態のときの自分の思考の癖もパターン化していることに気づいている(けどなかなか治せない)。だからなんとなくそうなんだろうなとは思っていて、だけどめちゃ頻繁というわけではないから病院に行くほどでは…と躊躇っている。自分が逃げられなくなる場所は極力避けたり、密室であっても身動き取れる場所を選ぶようにしている。最近も「うわ、出そう」って思って若干症状は出るんだけど、なんとか悪化せずに大丈夫だったという経験を積み重ねている。いざというときは病院へ行くことを決めつつ、できるだけ自分の思考の癖を改善して、大丈夫の経験を重ねることで治せないかなーといまは思っている。病院へ行くのを躊躇うのも、結局薬処方されるだけな気がしているから。たぶんこれは根本的には自分の考え方を改めないと繰り返してしまう気がする。

大学にも近隣図書館にもなく、でも読みたかった箇所があったので『図説 日本の精神保健運動の歩み』を購入した。こういうしっかりした視覚資料を手に取るのがほんとうに久しぶりで、なんだかそれだけでもちょっとワクワクした。中高生の頃はわたしも例に漏れず資料集に落書きばっかりしていたから、ちょっぴりそのときのかったるさと同時に可笑しさを思い出した。

ダラダラと寝っ転がりながら論文を読む。わかりやすさと不可視化は表裏一体なのかもなと思ったりした。

丸一日動かずにいて安心できる日もあるのだけど、今日は夜になって急に息苦しさを感じたため、スーパーまでひとっ走りした。食材をカゴに入れながら横目で知らない人たちの顔を見て、なんとなく安心して帰った。いかにもパジャマって感じの格好で来ている老夫婦や、ランニング帰りっぽい若い人、イヤホンをさして外界とある程度断絶されながら黙々と買い物をする人、仕事帰りっぽい50代くらいの人たち。たまたま同じ時間にスーパーに来ている人たちの、それぞれの人生を勝手に想像する。夜のスーパーはなかなかいいかも。人がいる場所に行くのが至極苦手なくせに、人がいることに安心感を覚える夜もあるんだな。矛盾ばかりだけど、所詮人間そんなものだろと開き直ることにした。

*1:いまは随分とヴィーガンベジタリアンの選択をしている人は増えてきたように思う。当然のことながら、わたしが感じた実践者への印象は主観的だし、限られた環境におけるものだと付言しておく。