空想

 

米津玄師 MV『vivi』 - YouTube

少し前に米津玄師 2023 TOUR/空想に行ってきた。約半年ぶり。

当選したのが名古屋だったのもあって、思いがけず初名古屋もかましてきました。が、諸々の作業が終わらず、結局開演ギリギリに会場に到着するくらいだったから、まったく名古屋観光はできず。せっかく友人に名古屋のおいしいコーヒー屋さん、カフェ、お食事処など聞いていたのに、ひとつも行けず、もったいなかった。電車を乗り継いでいったから、途中、滋賀も岐阜も通過して、意外と岐阜も日帰りで行こうと思えば行ける距離なんだなあと実感した。

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今回のライブはいつにも増して胸熱だった。

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いつかライブで聴けたらな、でももう聴けることはないのかもしれないな…と思っていたviviを、なんと、聴けた!!!前奏が始まった瞬間、思わず歓声をあげてしまった。ほんとうにうれしかった。

米津さんのライブに初めて行ったのは2018年の日本武道館で行われたFogboundだった。そのときだったと思うんだけど、終演後にライブのアンケートのようなものがあって、「ライブで聴いてみたい曲」の欄にviviを書いたのだった。ただ、そのときもライブで今後歌われる可能性は低いんだろうなと思ってた。やっぱりライブでは新しい曲メインで進められるだろうし。だから、今回はほんとうにほんとうにびっくりしたし、うれしかった。

帰りの電車のなかで前日のセトリを調べていたら、viviはDay2のみらしかった。なんと幸運なことよ。前日の街もそりゃ聴きたかったけど、viviは長年の念願だったから、当選したのがこの日でよかった。

 

 

好きなアーティスト(アイドル含む)は何人もいるけど、ライブまで行く人は片手で数えられるくらいの人しかいない。これはたぶん育った地域や環境、家族の文化資本なども関係しているだろうけど、今思えば、10代の頃に触れられる文化はかなり限定されていて、見えているものも聞こえる声も、あらゆる面で狭かったと思う。たとえば、上京するまでミニシアターなんて存在は知らなかったし、ドキュメンタリーというジャンルもよくわかっていなかった(今みたいに配信サービスもなかったから余計に)。英米仏以外の翻訳文学がこんなにもたくさんあったのも知らなければ、美術展がこんなにもいろいろあるのも知らなかった。ライブに行くという発想自体なかったから、初めてライブに行ったのも20歳を超えてからだった。

いざ行けるようになってもなんとなく敷居は高くて、いいなあと思いつつ応募しなかったライブもある。もともとあまりノリがいい方ではない、というか地味なので、ライブといえばウェーーーイ!!みたいなノリだろうし絶対乗れないという偏見があった。まあ、偏見というか、どういうアーティストのライブかによるんだろうけど。たぶん今も「全員で盛り上がろうぜ!」みたいなライブだったらちょっと尻込みしちゃう。

その意味で、やっぱり米津さんのライブは安心して参加ができる。

この2年半くらい、この状況のなかでできるライブの到達点は何だろうかと音楽仲間と話してた。そこでの結論は、演者も観に来た人も全員が一緒に一体感を持つということだった。でも、本当にそうだろうか。自分が10代の頃にライブに行くという習慣がなかったからかもしれないが、誰かのライブに行っても自分がここにいてもいいのだろうかっていう想いがあった。だから自分のライブではみんなで一体感を持つとかしなくていい。好きに盛り上がるのもいいし、あるいは今は声が出せないから手拍子を叩くのもいいけど、何もせず自分のなかで静かに音楽を受け取っているだけでもいい。ただそこにいるだけでいい。もっと極端なこと言えば、つまらなかったら帰ったっていい。それくらい、この場所では自由に過ごしてほしい。ときに人生はクソだけど、今日くらいはそうじゃなければいいと思う。

前回の変身のときのMCで話していたことだけど、こういうスタンスが自分にはありがたい。実際今回も近くの人のなかには、特にゆったり目のテンポの曲のときは座ってじっくり聴いている人もいたり、かと思えばずっと立ちっぱなしで身体を使って音楽をたのしんでいる人もいた。わたしもあまり腰が強くないから、途中途中座って休憩を入れつつ、でも盛り上がれる曲も好きだから、そのときはリズムに乗って楽しんだりした。こういう自由なたのしみ方を許されているライブの存在、大事。記録には残らないし忘却してしまう部分もたくさんあるだろうけど、時間と場所を自分の身体でもって共有するという体験は、何にも変え難い心地よさがあるなと行くたびに思う。