わたしたちがわたしたちであろうとすることについて

やっとこさ、帰京。帰省するときにとにかく掃除をしまくり、虫対策をし、食材の整理をした。家を空けるときは毎回やっていることではあるけど、どんなにやりこんだところで結局戻ってみると窓際に虫の死骸があったりするのでげんなりしていた。ありえない量の虫が入り込んでいたこともある。思い出すだけで身震いする。今回は虫の心配に加え、掃除した後の生ごみをゴミ置き場に出したかどうかの記憶が曖昧で、万が一出し忘れてたらどうしよう、と東京行きの新幹線に乗ったタイミングで思い出して、最悪だ…と頭を抱えていた。

 

今回の心配事項

  1. 生ごみを部屋に置きっぱなしにしていた場合、腐敗して液漏れ&虫が発生しているのではないか
  2. 液漏れしていた場合、床にシミができてしまうのではないか
  3. とにかく虫が大量発生しているのではないか

 

結論:すべて大丈夫でした!!!なんなら今までで一番大丈夫な状態だった。バルサンを焚いてから帰省したからか、なぜか1匹だけGが部屋のど真ん中で尽きていたけれど。ゴミも記憶にないだけで、ちゃんと処理していたらしい。過去の自分、ありがとう!

 

夏に収録したポッドキャスト前編、後編を両方とも公開した。のんびり、ゆっくり、マイペースにやっているポッドキャストだけど、とうとう(やっと?)第10回になった。わたしたちの対話が細く小さくではあっても、別の誰かにつながっていくことがとてもうれしい。役立つ情報ではないかもしれないけど、何かを受け取ってくれている人がいるということ自体が稀有なことだと思うし、ありがたいなぁ。

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あのさ、そう言って語り始める無数の「わたしたち」の話。
取るに足りないとされるかもしれないけど、それは「わたしたち」にとっては大切な話。
たとえ分かり合えなくても、言葉を紡いでいくことで見えてくる地平があるのかもしれない。
そんな可能性にかけて、まとまらない話を、結論のない話を、解決策のない話をひたすらに重ねていく。

一応これはわたしたちのポッドキャストのテーマのようなものなんだけど、わたしにとってはこういう対話、つまり、目的地のない会話をつづけていくことはとても大事。大量の情報やジャッジメントにさらされることから完全に逃れることが不可能な時代で、常に早く早くと追い立てられるように生き急がされるわたしたち。明確な回答やゴールを求められることに、ある意味で慣れてしまった自分にとって、そんなものが最初から期待されていない時間を過ごすということはものすごく意味のあることだ。このポッドキャストはまずなによりもわたしたちがわたしたちでありつづけるために必要な時間として確保されているように思う。

 

先月に『ポラリスが降り注ぐ夜』を読んでから、自分のラベルを模索するのをやめたことを肯定できるようになった。

「お姉さんは、この中のどれですか?」と、男は「性の在り方」のページを指で示しながら、そう訊いた。香凜は少しばかり迷ったが、ややあってゆっくりと首を振った。「分からないし、決めたくもないんです」と香凜が言った。「決めたくないって、クェスチョニングということですか?」と男が訊いた。「そうじゃないんです」と香凜が言った。「敢えて言葉で自分を定義する必要を感じません。昔は男と付き合っていたし、今は女と付き合っているけど、自分をバイセクシュアルだとは思っていません。かといって完全なレズビアンもない気がします。どの言葉を使っても、自分自身を部分的に削り取ってしまうような気がするんです」

(「深い縦穴」より)

theworldofsilence.hatenablog.com

 

インターネット上で名乗るとき、自らのジェンダーセクシュアリティをオープンにする人をよく見かけ、自分も一時期自分に近いかなと思うセクシュアリティをオープンにしたことがあるけど、やっぱりしっくりこないなぁと思って、それからは秘匿のままだ。どの名前を取ってみても、はみ出る部分があるように思えて、ひとつの表現で名乗った瞬間に捨象される部分があると気づいてしまったから。名乗りに関して、さまざまな意見はあるだろうけど、わたしは名乗りも説明もしないことにした。もちろん、そうできるからという側面もあるだろうけど。今努めているのは、自分が揺らぎ続けていること、変わり続けていることを、極力否定しないようにすること。変化を肯定することは思っているよりもむずかしい。少なくともわたしにとっては。肯定できなくとも、否定せずに、訪れた波を跳ね返さないようにしていきたい。

 

ひょんなことからつながった(つながってくれた)友だちとの文通。いろいろな贈り物と一緒にやってきた。この間日記に書いたSTRAY SHEEP Radioから、ひさしぶりに彼のブログを読みたいなぁと思って、しばらく昔のものを読んでいた。

生産的・非生産的という視点でSNSのことを話すと、「ネット上でのコミュニケーションなんて生産性だけを追い求めたもの」みたいな意見も出てくるだろうけど、わたしらみたいな人間にとって、SNSはとっくにある種のリアルであって、喫茶店でコーヒーを飲みながら管を巻くのとさして変わらないことだ。ネットの奥の彼岸に救われてきた身としては、面と向かってのコミュニケーションこそが至上という考え方には違和感がある

郵便受け | 米津玄師 official site「REISSUE RECORDS」

それはほんとうに、そう。リアルとネットってそう簡単に分けられるわけではない。たしかに対面して話すことと文字や音声のみを通して話すことには違いはある(というのをこの3年弱で痛感させられている)けど、オフラインのつながりがオンライン上のつながりに勝るという議論には立ち止まらなければならないと思っている。わたしも「ネットの奥の彼岸」に救われてきた側の人間だから。

お互いの「好き」や似通った思考の波を理由につながった人との関係は、柔くも力強いものだ。もう何年もつながりつづけている友だちがいることがその証拠だ(今一緒にポッドキャストをしているむーちゃんは、考えてみればお互いが中学生くらいのときにやっていたアメブロがきっかけで友だちになったようなものだ。かれこれ10年くらいの付き合いになる)。(追記:むーちゃんのブログもこっそりと)

somewhere.hatenablog.com

こうやって時折文章をしたためて送ってくれる友人がいるということ。SNSも面倒だ!しんどい!とかいいながら、なんだかんだで今の今まで使い続けてしまっているけど、こうしてたまに踊りたくなるようなうれしいつながりを持てたりするので、やはりインターネットから完全に距離を取ることはできないなあって思う。

怒涛の移動月間が終わったら、ゆっくりと時間を取ってお返事を書こう。

話は戻るけど、やっぱり彼の日記がすごく好きなので、また書いてほしい。日記を読みながら、自分が彼のつくる音楽に惹かれている理由もわかるなって一人で納得した。こういう、読みたい!と思える記録を書ける人がうらやましいし憧れる。