2022/9 ゆるめる、たくわえる、あじわう

9/1

HAPPY BIRTHDAY JUNGKOOK!!

たくさん美しいものをその瞳におさめて、やりたいことはなんでもやってみてほしい。これからどんな活動をするにせよ、ひとりのファンとしてこれからもずっと応援し続けていきたい。

 

ひさしぶりに署名をする。対象がこの人だからという理由もなくはないけど、この人じゃなかったとしても「国葬」なんてものには反対だ。相手が誰であろうとも。「国民一人一人に喪に服することや、政治的評価を求めるものではない」なんて詭弁だ。本当にそうならば、なぜわざわざ「国葬」なんて形を取るのか。戦後の歴代首相のなかで圧倒的に高額な費用をかけてまで、しかもその負担は税金という形で「国民一人一人」に課されるにもかかわらず。約2億5千万のお金はもっと他に必要とされる場所があるでしょう。毎日、ありえない、と思っている。

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9/2

月が変わったということで、いろいろと本を注文する。毎月の出費(固定費除)で食費の次に多い出費が本だと思う。積読も溜まる一方だけど、本は買えるときに買わないとあっという間に適切な価格で手に入らなくなってしまう。「推しは推せるとき推せ」とはよく聞くけれど、「本も買えるときに買え」だな。

 

9/3

隣町に最近できたイオンの2階に共有スペースができたと聞いたので、さっそく行ってみた。

ケアに関する書籍のコーナー

地元はあらゆる文化施設が乏しい。わたしが今本屋に通い詰めているのも昔の反動かもしれないと思うときがある。昔はまともな本屋が移動可能圏になく図書館もいまいち機能していなかったし、映画館もイオンにあるひとつだけで観たいと思うものはなかった。美術館や博物館なんて以ての外。学校や家に居場所を見つけられない子供がたまるのは、ゲーセンか公園か、駄菓子屋くらいだった。ゲーセンや公園、駄菓子屋が悪いわけではまったくないけど、安心してぼーっとしたり、宿題をしたり、本を読んだりできるような場所はなかったのだ。

ずっと読んでみたいなと思っていた永井玲衣さんの『水中の哲学者たち』を読んだ

今回、共有スペースができたと聞いても、正直なところそこまで期待はしていなかった。いくつか本も置いてあるみたいだよとは聞いていたけど、どうせ自己啓発やビジネス書、いくつかの日本現代文学、雑誌くらいだろうと思っていた。だけど、行ってみてびっくり。かなり良書が並んでいた。決して多いとは言えない量だけど、選書のセンスがけっこういい(何様…)。わずかな量だったけど、フェミニズムに関する書籍や、セクシュアリティについての書籍もあった。ひとつでも多くこういう本が置いてあることは、特にこの環境から自力で抜け出せない年齢の人にとって、ほんの少しくらいは安心材料になるかもしれない。

ところどころに椅子や机、ソファもあって、その近くには「自習、読書、仕事、ご自由にどうぞ」という文言が書かれたボードが立っていた。こう明言されていることで、変にまわりを気にせずに勉強したり、ただ居ることもできるなあって思った。図書館だと場所によっては勉強禁止、パソコン禁止ってところも少なくないから、わたしはいつもビクビクしながら利用していた。そんな杞憂なく、利用できることはこの場所の大きな強みかもしれない。わたしは共有ライブラリの近くで読書していたけど、別の区画にはコワーキングスペースもあって、予約制なのかはわからないけど、そこは個室もあるみたいだった。集中したい人はそこの方がいいかもしれない。

 

この間たまたま好きなドラマのひとつ、『MIU404』のシナリオブックの存在を知って(2年越し…)即購入した。いちばん好きなドラマ『アンナチュラル』のシナリオブックもあるのかと思いきや、それはないらしい。非常に、残念。『MIU404』シナリオブックはまだちゃんと読めていないけど、主題歌の感電をふと思い出して、芋づる式に、そして久しぶりにSTRAY SHEEP Radioを聴いた。やっぱり米津玄師、好きだなぁ。日本のアーティストで数少ない好きな人だ。

このラジオを聴くのは2年ぶりかな。2年経って抱く感情はまた格別だった。十代の頃からあまり邦楽は聴いてこなかったけど、彼の生み出す音楽だけは新しいものが出るたびに聴いているしライブにも行っている(実は10月のライブも当たったので、行きます!体調を整えてたのしみたい)。ハチ名義で活動していたときは正直知らなかったけど、兄が昔ボカロ曲をよく聴いていたから、初めて聴いたときになんとなく聞き覚えがあって不思議な感じがしたのは覚えている。今、わたしのような人間のところまで届いてくれたのも、きっと彼が大衆音楽というジャンルを選んで音楽をつくってくれているおかげかもしれない。


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さっきも言ったかもしれないけれど、時代の流れとかそういうものに対して、今自分がどこにいるのかっていうことをちゃんと知っておきたいですよね。じゃないと、著しく人を傷つける存在になってしまうっていうのが、まあ、昔からそういう何かしらの恐怖というか。いろんな移り変わりと共に文化も変わっていくわけで、規範とされる行いだとか、倫理観だとか、そういうものも、まあ変わっていくわけでしょう。(中略)自分がどこにいるのか。時代とそぐうところにいるのか。それとも時代と全く逆行したところにいるのか。それはそのときどき違うと思うんすけど、とにかく今自分がどこにいるのかっていうのはちゃんと確認しておいて、そこからその時代に対してどういうふうに発信していくのかっていう、まあ考えたいですよね。

自分が誰かを傷つけるかもしれないという、ある種の恐怖心のようなものを持ってくれているからこそ、彼の生み出す音楽を安心して聴いていられるという節があるのかもしれない。

 

自分がつくる音楽っていうのはいろんな世の光を移しているだけであって、光を、こう、反射して。それこそミラーボールでもいいし。で、俺はそれは宝石みたいなもんだなと思ってはいたんですよね。(中略)だからそもそも生まれた瞬間から人間は、球体として生まれるというか、まんまるな球体として生まれて、そこから成長していくにあたって、たとえば傷がついたりとか、価値観の違いとかに出会っていくなかで、それが球体ではなくなっていく。いろんなふうに研磨されていくのか、摩耗していくのか、もしくは自分自身で形を整えていくのか。いろんな形で完全なる球体から徐々に徐々に形が角ばっていくというか、そのなかでいろんな光が周りから入ってくるものを反射することによって美しく輝いていくっていう。

 

新型コロナウイルスで混迷極める社会の中で自分が何をすべきか考えたときに)自分にとって一番似つかわしい形って何なんだろうなって考えたときに、やっぱりそれは音楽を作ることであって。だから何らかの形で、現状に喘ぐ人間だとか、そういう人たちに対して「あなたたちは生きててもいいんだよ」ってことを肯定できるだけの曲を作り上げる必要があると感じて、作り始めたのがカナリアって曲であって。(中略)未だに不安ではありますね。聴いてくれる人がどういうふうに思うんだろうっていうことは。肯定しなければならないっていうのはまず第一にあって、これだけ世界的な混乱が生まれると、もうどうしたって元の姿には戻らないですよね。(中略)でも少なくとも前のような状態には戻らない。そのあいだにいろんなものが失われて、それこそ職を失った人間もいるだろうし、それに絶望失望して、それこそ命を絶ってしまった人間もいるかもしれないし、元には戻らない。変わり続けていく世の中、自分自身に対して、それを肯定してやらなければならないっていうのはすごく強くあるんですよね。不変不朽のまま人間はいつまでも生きていくわけではなくて、どれだけ変わりたくないと願ったところで変わっていってしまうものですよね。(中略)いついかなるときも同じところにとどまっていることは不可能なわけであって、その不可能であるっていうことを強く認識しながら生きるべきだっていうのは思うんすよね、自分の生きていく上で。

こんな社会の状況になって約3年。まだこれから先どれくらい続くのかもわからない。戻りたいと願うものは多いけど、どう足掻いたって戻すことのできないもの、失ってしまったものがあまりにも多くありすぎる。変わっていくこと、変わり続けていくことを肯定すること。それは社会の状況だけでなく、身近な人間関係もそう。引用した次の部分で人間関係についても話しているけど、どういう関係性であれ、相手の好きな部分はずっと不変のままありつづけるわけではなく、それも変化していく。それをその好きな部分だけに固執してしまうと、それは相手を自分でつくった枠の中に閉じ込めてしまうことになる。それは不健全な関係性なのかもしれない。

あなたはあなたじゃなくても構わないというふうに肯定することが、まわりまわってその人を一番肯定することにつながるんじゃないかなって思うんすよね。

 

推しが!日本に!いる!仕事以外でも何か美しいものを観たり、おいしいものを食べて、いい時間を過ごしてくれるといいな。

 

9/4


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The 1975のI'm In Love With Youを聴く。軽快なリズムで何度も繰り返し聴きたくなる。歌声もやさしくてやわらかくて、いいね。

There's something I've been meaning to say to you, baby
but I just can't do it.

ここの歌詞が頭の中でこだまする。言おうかなと思いつつ口を閉ざしてしまったり、今じゃないかなと思ってぐっと押し込めたりする言葉がある。話してみればいいものを、なかなかできない。そういうのあるなあって思いながら聴いていた。


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OMAMのMy Head Is An Animalがリリースされてから10年(!!)ということで行われたセッションらしい。6月にあったなんて知らなかったなぁ。ちょうど6月は騒音問題に悩まされた末の引っ越しで、忙しない日々を過ごしていた。3ヶ月遅れだけど、おめでとうございました。コロナの前に来日ライブのチケットを取っていたのに、結局行けずじまいだったのだ。いつかライブで生で聴きたいし、アイスランドに行きたいよ。それにしても音も声も良すぎる…。聴きながら「うわあ…ウゥ…よい!!!!」と叫んでしまう。もう入りから最高。Dirty Pawsの前奏がほんとうに好き。2曲目のFrom Finnerの歌い出し"We came here on his back"も鳥肌ものだ。Little talk、このテンポもまた味わいがあっていいなぁ。というか、全体的にアレンジがよい。ふああ、すきだなー。

 

昨日気になっていたコワーキングスペースを利用してみた。有料だけど、静かだし机も広くて最高。たまに利用してみるのもいいかもしれない。わたしが暮らしていた頃とは、街並みがすこしずつ変わってきている気がする。それはとてもポジティブな意味で。なんというか、場は多くの人に開かれるべきだし、見える景色はできるだけ広い方がいいなと改めて思った。所有よりも共有/共用できるものが増えていくといい。

 

同じ家で暮らしながら久しぶりに親と会った。10日ぶり。数字にするとたった10日かと思うけど、1人だけ陰性を貫いた自分としては、さまざまなサポートが本当に大変だった。実家ではあらゆることを全部ひとりでやる必要はないので、ひとり暮らしよりも多少怠惰でいられる部分があるのだけど、ひとり暮らしに戻りたいと思うくらいにはしんどかった。動く量の問題以上に、自分は感染できない(タイミング的にかかるとまずい)ので、そのリスクに常にさらされていると思うこと自体がしんどかった。でも開口一番に母に労いと感謝の言葉をもらえたので、すこしだけすくわれた。次の週末の前までには京都に戻る。怒涛の9月が始まる。準備体操をして備えなければ。

 

9/5

本当だったら今日は今夏の大きな楽しみを終えて、お土産話をしている頃だっただろうな。無事でよかったねっていう想いと、わたしの大きな予定が消えたことへの父の軽い態度に対する苛つきが入り混じる。ほんとうに、ほんとうにたのしみだったのだ。どうしてわたしたちの予定はいつも外部の要因によって突然消し去られることがこんなにも多いのだろう。台風やパンデミック、あるいは突然の中止という形で。またいつでも、どこへでも行けるっていう想いはあるけど、ほんとうにそうだろうかという不安が頭をよぎる。日常はいつも呆気なく終わりを告げるし、ある程度自由に動ける身体がいつまで存在しているのかもわからない。「いつでも」は「いつでも」ではないということを知っている。だからこそ、今回も大事な予定だったのだ。素面ではないとはいえ、それを軽く笑ってあしらうなんて、なんて人だろうと沸々と怒りが湧いてきて鼻息が荒くなる。小さなことを大事にできない人は大きなことも大事にできないよって静かに思う。

 

自分にはことごとく関係性の枠がないなって朝っぱらから考える。むしろその枠組みや名前への鬱陶しさを感じる。

関係に名前なんかなくていいんだよ

ヤマシタトモコ『違国日記8』

違国日記(8)【電子限定特典付】 (FEEL COMICS swing)

自分自身がそういう人間だからかもしれないけど、家族も親子も友達も恋人も、どうしてそんなに名付けなきゃいけないんだろうかと思ってしまう。その枠の中でしかその人のことを見れないだなんて窮屈だし、その枠を利用して自分との関係性が説明しつくされてしまうだなんて悲しい。とはいえ、わたしもたいてい擬態しながら生きているので、便宜上「家族がさ…」「かのじょは友だちで…」と話してしまうけど。ほんとうは誰のことも枠の中で説明したくないし、本当に話したいことはそんなことじゃないんだよって思う。いちばん大事なのはその人が自分にとってどんな存在かどうかだし、わたしたちが何を共有し何を共有しなかったのかだよ。それを話すときに便宜上の名前はむしろ邪魔。大事なのはそこじゃないんだよ。

最近購入した絵津鼓『Small Good Things』のストーリーも、なんだか、そういうことなんじゃないかなと勝手に解釈している。

猫の話なのでうちのももさんと撮ってみたが、頑なにカメラ目線にはならないという意思を感じる


昼頃、整骨院へ。肩背中腰の疲労感がハンパないので。先生曰く、腰骨が本来はお腹側にカーブしているのに逆に湾曲していると。結構厄介な状態らしい。どうしても座りっぱなしの姿勢が多いから仕方ないとはいえ、20代半ばでそんな状態だなんてなんだか情けない。帰ってきて気休め程度にクッションを背中に挟んでいるけど、椅子ごと検討した方がいいようだ。しかし、いい椅子は高い。どうしたもんかな。背骨を矯正(あるいは少なくとも悪化させない)ような椅子でいいものがあれば、おしえてください、誰か……。はあ、身体は厄介だ。

 

今日はSerendipity5周年なんですって。大好きなジミンさん、元気にしているかな。


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설레는 만큼 많이 두려워

운명이 우릴 자꾸 질투해서

너만큼 나도 많이 무서워

When you see me

When you touch me

Serendippityの歌詞のなかではここが好きだな。だいぶ解釈は変かもしれないと思いつつ、わたしはこの歌詞に誰かと親しくなるときの不安と怖さがあるんじゃないかと思っている。距離を縮めすぎてしまったときの怖さ。

 

普段親しい人にさえ自分の研究については話さない。大学で知り合う人にしかきちんと話していないと思う。それは恐怖心からだ。どうせ理解されない、自分はまともに喋れない、批判される。そんなことばかりが先行してしまう。話すよりも書いたものを読んでもらった方がよっぽど気楽だ。そんなわけで、家族はわたしが院にいることを知っているけどわたしの研究についてはほとんど知らない。どういう話の流れだったのか明確には覚えていないけど、母と昼食をとりながらわたしの修論の話になった。うまく喋れてないなあっていう感覚はあったけど、それを母は真摯に聴いてくれて、断片的に届いたような感触があった。自分で自分の研究には意味があると肯定してあげないとなぁ。書けることは書いたと思えるような論文を書きたい。がんばりたい。