「日記は誰かに向けた言葉ではないということに意味がある」

7月のおわりに観たマームとジプシーによるcocoonがすばらしかった。大事にしている『cocoon』の世界が演劇によってまた異なるすばらしさを発揮していた。はじめて観に行った演劇がこの作品で、ほんとうによかったと思っている。

まだあといくつか公演は残っているから、これから観に行く人は読まずにページを閉じてください。事前情報なしに観た方がきっと受け取れるものが多いから。

 

 

iphoneに断片的に残したメモの記録から講演を振り返ろうと思う(観たときの感想や、アフタートーク、印象に残ったセリフなど、ごちゃまぜでメモしています)。

 

 

  • 演劇は記録じゃなくて記憶。“今”ということ。一回きり。

わたしが育った地域は南関東の端の田舎町で文化的施設はほぼなく、一緒に生活していた家族や交流のあった友人もカルチャーと呼ばれるもの全般的に関心が薄かったり、とりわけ演劇や美術に関する趣味を持つ人は皆無だった。だからといって、それが自分の趣味嗜好にどれほどの影響を持っていたのかは今更はかれないけれど、とにかく、わたしは今まで演劇を見に行くという行為を自分の選択肢に加えたことがなかった。今回行くことになったのも、純粋に好きな漫画が原作であり、これを生身の人間で表現する世界とはどのようなものなのかと気になったからだった。

アフタートークで演出家の藤田さんが、演劇は記録じゃなくて記憶だという旨の話をした。なるほどな、と思った。いくらこの演劇を映像化したところで、目の前で鑑賞することと画面越しに鑑賞することとでは雲泥の差がある。そのことはこの3年間、対面授業/オンライン授業、ライブ/オンラインライブといった形で実際に体験し、骨の髄まで理解したつもりだ。それは単に迫力ということだけではないように思われる。あの日の演劇を記憶のなかで何度も反芻し、想像し、問いとして考えていく。記憶がたとえ正確でなかったとしても、受け取ったものの重さと深さは真実だと思う。

 

  • 沖縄に10年通った。特にこの2年も。今回使われてる音や映像は全部沖縄で撮り溜めたもの。これは前回、前々回にはなかった。

わたしは『cocoon』を読んだのが去年だったこともあって、以前にも演じられていたことを鑑賞日直前まで知らなかった。以前はどのような演劇だったのか気にならないといえば嘘になるけど、それを知らなくても今回十分にたのしめたし、今回観に行けてほんとうによかった。水の音、風の音、虫の音。いろいろと記憶が蘇る。

 

  • 今までよりも史実の重みをぐっと出してきた。演出家の言葉ではなく、沖縄関連の本から引用してきたものがほとんど。(朝鮮半島からやってきた煌びやかな服を着た女性たちのこと。最初からガマに行ったのではなく、壕だった)

なんだか以前研究については言及しない(していない)と言ったけど、明言してないだけでめちゃくちゃ仄めかしているよなと我ながら、思う。だけど、多少なりともこの研究分野に足を踏み入れたからこそ、劇のところどころのセリフでハッとしたり、なるほどなぁと唸ってしまったりしたのだ。

 

  • 原作ではフィクションの力によって飛び越えているものがあるけれど。本当にあったことを大事にしている人が沖縄にいる、そういう人たちとの出逢い。
  • 戦争を描くときに、反戦演劇としては描きたくなかった。戦争というとき、すぐに何万人が死んだとか数字的な全体的なことに話は行きがちだけど、数万人が死んでも一人が死んでもとんでもないことに変わりはない。一人一人のプロフィールの重みを載せたかった。(どこどこ出身の誰である。何が好きなのか。)
  • 戦争を描くときに悲惨なことだけを描くようなことはしたくなかった。
  • 役者たちが一人一人のプロフィールを背負っている。(対話者の人の言葉)

「うわあ、わかる……」と思わず思ってしまった。わたしが自分の研究でも大事にしたい(している)ことだったから。そしてそれゆえの葛藤と苦しみと、迷いがあるということも、まるで自分ごとのように感じてしまった。簡単に「わかる」だなんて言っちゃいけないかもしれないけれど。

 

  • 今までよりも大きな劇場でやったのはそういう希望をこちらから出した。今までは演劇の中に観客を巻き込んでいくような、目の前で起きていることとして上映したけど、今回は俯瞰的に見てほしかった。みんなのなかにある戦争ということと描かれている戦争を噛み合わせる作業。それを演出や役者の熱量によって力技で巻き込んでいくことはしたくなかった。ある種の距離感の中で見てみてほしかった。

なんだか意外な発言だった。むしろ演劇は鑑賞者を巻き込んでいくものだと思っていたから。ただ同時に、ある種の一線を画したところから観るのは「ただしい」とも思った。安易な共感はこのテーマにおいて求められていないと思ったし、共感することだけがすべてではないとも思ったから。距離を保ちながらまなざすことは時と場合によっては大きな暴力になりうる。しかし、だからといって“そのなか”に入ったり、入ったふりをすることが暴力をなくす方法なのではない。いずれにせよ、自分の身振りと状況の組み合わせによっては暴力になりうるのだ。必要なのはいかに暴力的なまなざしを持たないようにするのかということではなく(いや、それも大事だとは思いつつ)、見てしまったものをいかに引き受けられるかということのような気がしている。特に、最近は。少なくともわたしは、cocoonを観てから、いくつもの問いを繰り返し自らに問いながら、わたしなりの引き受け方を模索している。

 

  • 少女たちの戯れのシーンが原作よりもずっと多くて長かったけど、それらが一人一人の死の際にサンが記憶として思い出していく演出。
  • えっちゃん 「日記は誰かに向けた言葉ではないということに意味がある。だからそれは誰にも届かない」。(最後のシーン)「でも忘れないで。未来の人に、わたしたちがここまで生きたことを、そしてここで死んだことを」
  • パイロットの予定だった?途中から一人称が僕に変わっていった。沖縄出身だけど東京で育って飛行機に乗る予定だった。飛行場にいた。そして人を殺しに行くところだった。そして沖縄へ。でもサンを守るために一人殺してしまった。
  • 原作では繭とのシーンが印象的だったけど、演劇ではどちらかといえばえっちゃんとのシーンが印象的だった。
  • 生きたということを、生き延びようとしてきたことを残すこと。鮮やかで煌めく時間も戦争の中であっても皆無だったわけではないのだということ。