2021/12 ときどき週報

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12/4-5

大好きで大切な友だちがやってきた。年内にまた会うことができて、ほんとうにほんとうにうれしくて、一緒にいる時間が一瞬で溶けてしまったかのように、あっという間に時間が過ぎていった。多くの、とても多くの話をしたと思う。少なくともわたしにとっては、「わたしたち」だからこそ話せることや打ち明けられることがあると確信している。普段口にしてこなかったこと、なんとなく言うのが憚られると感じていたことを、2日間かけてぽつり、ぽつりと言葉にした。断片的で、明白でもく、言い切ることが難しいものごと。簡単に「こうすればいいじゃん」とは言えないことがあまりにもこの世界には多くて、「わかっていたけれども」「知ってはいるけれど」「だからといって」、こんな言葉を挟まざるをえないことがあまりにも多くて、お互いにお互いの感じていることをただ話すしかないのだ。でも、話していて答えを求められないこと、解決策のようなものを提示されないこと、これはやさしさだと思う。複雑なことを複雑なままに、わからないことをわからないままにきちんと言葉にしていくことは、思っているよりも難しいことだから。どうしてもアドバイス的なものをしなければ、と思ってしまう人はやっぱり多いのだろうな。人の話をしっかりと聞くということは実はむずかしいことだし、案外能動的な態度だとも思う。わたしはいつも「わたしたち」でいるとき、その時間と空間をとても信頼できると感じるし、一緒にいることですごく安心できるのだ。「わたしたち」は出会ったときとはお互いに立っている場所も、日々の過ごし方も変わってきていて、もしかしたら内的な部分にも変化はあるのかもしれない。それでも、その変化さえをもたのしんでいければいいと思っている。いつどんなときでも、どこで暮らそうと、再会したときにはいつだってこの「場所」が現れるのだ。それを知っているだけでもわたしはわたしの日々を真正面から見つめる勇気をもらえるし、戻れる「場所」があるということ自体がわたしの輪郭を確かなものにしてくれる。

 

わたしがどれだけ、数は少ないが、友人らを信頼し、その関係性を大事に思っているかをよく母に話す。わたしはわたしにとって大事な人とそうではない人の境界を割とはっきりと定めてしまう傾向があって、だからこそ多くの人となんてことのない世間話をするというのは実はとても苦手。昔よりはずいぶんマシになったけれど、それでも人見知りしてしまう気質は今も健在だ。だからよく母には、初めて会う人たちと全然話さなかった・社交的になんてなれないといった話をしていて、実際そういう自分の内向的な部分はいまだにちょっとしたコンプレックスでもある。でも母は、わたしが抱く友だちへの感情や友だちとの関係性を聞いて、「友だちとそうなれることは実はすごいことだよ」と言ってくれた。わたしは友だちといるとき結構な確率で脱力してしまう、というかいつも友だちがわたしの気を緩めてくれている。気を抜いていても緊張しないし、無言でいても気まずくない、むしろ心地いい。こういうことが母にとっては考えにくいことだそうだ。もちろん母も母の友だちと久しぶりに会ったときなんかはとてもたのしく、会話も弾んでしまうと言っているけど、でもそれは一緒にいるときがリラックスできるというわけではなく、むしろ帰ってきたら疲れてしまうことがほとんどだそうだ。もちろん「友だち」とひとことで言っても、その関係性の内実は人それぞれだろうし、わたしや母のケースともまた異なる在り方もあるとは思う。でも母の言葉を聞いて、わたしは少しだけ自分への誇りを取り戻したし、今大事だと思っている関係性を、たとえ今とは形が変わってゆくとしても、ずっとずっと大切にしていきたいと強く思った。

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とてもたのしい時間を過ごした後で急に感情を揺さぶられる出来事が起きるのは、もうなんだかわたしの人生の常になってきてしまっているんだけど、今回もまた起きてしまった。これはあまりにも自分の核心に触れてしまうような話で、とても見知っている人が見る可能性のある場所には何が起きたかを綴ることができない。いつもこういうことが起きるたびに、わたしが自分の裁量で人生の選択をしていくということがいつか不可能になるのだろうなという悪い予感を感じる。わたしという人間ではなく、かれらから見たときのわたしの立ち位置が役割として利用される日がいつか、もしかしたらそう遠くはない日に訪れるのかもしれない。ため息ばかりが出てしまう。

 

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12/6

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初夏のあたりに初めて会って以来、月1ペースで会うことができている新しい友だち。毎度毎度時間がまったく足りないなぁなんて思いながら、一緒にいる時間を噛み締めている。出会った頃は汗がたらりと垂れるような季節だったのに、気づいたらカイロを必要とするような季節になってしまった。自分と全然異なる人と一緒にいることもそれはそれでもちろんたのしいものだけれど、彼女のようにどことなく似ている価値観や感覚を持っている人と共有する時間はとても落ち着くことができて、癒しのひとときになる。すぐ、ポケ〜っとしてしまう。忙しなくなる時期の前に会えて、よかった。

 

以前むーちゃんとも話していたことだけど、特にこの2年間は未来へ思いを馳せる、あるいは何か計画を立てるということがことごとくできなくなってしまった。先が見えないということ。未知への希望というものがまったく抱けない。未知が単なる不安や恐れでしかないのだ。何を想像してみても「どうせ…」という気持ちになってしまう。コロナの影響は計り知れないけれど、なんとなくそれだけではないような気もしていて、でもそれが何なのかがよくわからないでいる。何かを選択するときに、それに対するバックアップを用意しておくというのはたしかに必要なことではあるのかもしれないけれど、今の自分はそれが過剰になっているというか、バックアップのための想定というよりも確信としての悪いイメージ。このイメージが足枷となって、何かを選ぶことも進むこともできなくなっている。ぴったり1年くらいの未来予想図は描けるけれど、それ以降の自分がどこにいて何をしているのかがまったくわからないし、想像することさえもできない。毎日毎日同じイメージをして、いったいどうしたらいいんだろうと悩んでいる。こんなときだからこそ、短期的なスパンでたのしい予定を入れておくということが超重要事項になっている。そのときまではどうにかこうにか生きてみようという気になれるから。…と、そんなわけで、Sさんと今までやったことのないことでやってみたいこと(今の状況でもできそうなこと)をやってみようという話になった。とりあえず挙がった候補は、陶芸と登山(山でおいしいコーヒーを飲むことが主目的)。山はもう少し暖かくなってからということで、とりあえず来月陶芸をやってみようということになった。実は陶芸は何年も前からやってみたいと思っていたのだけど、なかなか1人では重い腰が上がらず、後回しになっていた。沼入りまでは果たしていないものの、器は昔から結構好きで、今も少しだけ集めた作家さんのマグや器を日常的に使用している。いつか自分でも何かつくってみたいなぁと思っていたのだ。まだどこでやるかは未定だけど、そういう心躍る予定を入れておくというのは今の自分の大事な手綱になる。

 

12/7

今日ははじめてのG先生の授業だった。わけわからんかった。それにやっぱりわたしはこういう授業がとてもきらいだと再確認した。この人がこう言ってます、この概念は〇〇です、「女性の問題」、社会学とは〇〇という学問です、マジョリティ/マイノリティ。端的に言ってつまらないし、端的に言ってわかりやすすぎるし、端的に言ってむかついた。あと2回もこういう授業を受けないといけないのかと思うとぐったりする。

 

12/8

今日のゼミでは『ヴィータ—遺棄された者たちの生』の一部分を読んだ。秋の初めに図書館で借りてみたんだけど、めっちゃくちゃ分厚い。到底読み終えることができなくて、結局配布された部分しか読めなかった。簡単に感想が言えないような、なんとなく口をつむいでしまうような……そんなこと。特にここ2年の身内のことも相まって、ぐいぐいと浸透してくる内容だった。役に立つか立たないかというものさしで人を見ることは間違いなく断罪されるべきことだし、消滅すべき考え方だと思う。しかし、自分がそういう状況に立たされたときには、口で言う易さとは裏腹に、非常に複雑で矛盾した感情を抱えることも知っている(そうならない人もいるのかもしれないが)。とにかく、むずかしくて、わたしもまだまだもがくことになりそうだ。

 

 

12/9

「特権」「インターセクショナリティ」「マイクロアグレッション」。どの概念も分析も非常に重要で、こうした研究によって明らかになったことは多い。のはわかっているし、それを否定するつもりもないのだが、しかしこうした言葉で抑え込むことで志向/思考できなくなっていく事柄がやっぱりあると思えてきて、まだわたしはこういうテーマに関して明確な意見を言うことはできない。特に「特権」という言葉については慎重になっている。

 

12/10

前日の授業で感じたモヤモヤ、最近「ブーム」になっている概念、アカデミアと実生活について同期と話し込んだ。わたしが抱えていた違和感はわたしだけではなかったようで、ちょっぴり安心した。なかなかこういうことは話せない。聞く人によっては差別容認派と見なすかもしれないし(まったくもってそんなことはないのだけど)、実際わたしがどういう言葉を使って話すかによって誤解を与えかねない話であるというのも事実だと思っているから。もし相手が論破好きであったり、ディベートが得意であったりした場合なんかは絶対に話せないし話さない。相手がきちんと聴く耳をもっていると確信しているからこそ話せることだ。でも話をしたからといって、いわゆるアハモーメントがあるわけでもなければスッキリするわけでもない。むしろ一層モヤモヤが深まるだけかもしれない。それでも、そこにこそ人と話すことの意味があると思っているから、お互いに謎を深めてしまったけれど、こういうことの積み重ねがいつか新しい思考を切り拓くと信じて、今は謎に謎を重ねて悩んで考え続けるしかない。

 
12/12

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12月もあっという間に中盤に。昨日は大学関連のバイトの説明会で1日潰れたから、家事がまったくできなかった。今日は朝から床掃除、洗濯、トイレ掃除、キッチン掃除をした。夜はお風呂掃除も追加予定。寒くなってからというものの部屋に埃が溜まりやすくて嫌になる。掃除をした次の瞬間から汚くなっていく。夏よりもさらに掃除頻度が増えて、最近は最低限掃除機だけは2日に1回かけるようにしている。潔癖症ではないけれど、若ッッ干そういうきらいもある(ごくごく限られた人以外は家にあげられない…)ので、掃除はなるべくがんばっている(がんばりたくない)(でもやらないと精神的にやられてしまう)。そのあとは今週のゼミでみんなで読む『氷柱の声』のレジュメ作りと、再読をしていた。ほんとうに好き。ゼミの仲間たちがどんな読み方をするのか、何を思ったのか、聞くのがほんとうにたのしみだ。

今日は、いやここ数日やたらと研究のモチベーションがあがって、心身の調子もなかなかよいので、1日のあいだにできることが増えてきていてうれしい。今日も夕方までは家で読んだり書いたりして、4時過ぎくらいから7時半くらいまでは研究室にこもってコピーしまくって溜まっていた文献をずっと読んでいた。身体がどうにも動かない、頭が働かない、そういう日が頻繁に訪れることをよーくよーく知っているから、こうしてたくさん集中できる日があるとうれしいし、きもちいい。今日は日曜日だからあまり研究室に人いないかなと思っていたけど、M2の人たちが追い込みで修論を書きに来ていた。がんばれ、がんばれ、わたしもがんばる、がんばる。