202312 ときどき週報

20231204

手術。局麻そのものが痛くて悶絶。耳元で音がしていることも恐怖。思ったよりも術後が痛くて困っている。泣き言言いたくなって母に電話。いつまでも甘ったれで仕方ない。昔から何度も「〇〇が心配じゃないのか」「死んだら悲しんでくれるか」と言ってきたあの人からは何の音沙汰もない。連絡がほしかったわけじゃないし、あったらあったで困るけど、いつもあの人は自分が自分が!ってそればっかりだったんだなあと改めて。悲しみの強要は暴力だ。

 

20231205

痛くて困った。自分自身をきちんと清潔にできないこともつらい。人に会いたくなくなる。指導教授に翌日の件で断りを入れた。無理せずに、と別案をもらったが、いやそれ無理じゃね?という内容で、予定通りにと返事をした。人に迷惑をかけるのが一番嫌だと思ってしまう。怪我のときもそう。北海道で怪我をした翌々日にはフル労働日で、近しい人からは休みなよと言われたけど、穴ができる=迷惑をかけてしまうと思い、出勤した。ご高齢の方たちにさえ追い抜かされるスピードでよろよろと歩いて職場に向かった。がんばれば歩けるし、と思って。よくないなあと我ながら思う。薬を飲み、軟膏も塗り、眠った。

 

20231206

昨日よりも結構痛みが引いていた。うれしい。午後からしっかり予定通りのスケジュールをこなした。ゼミで『羊の怒るとき—関東大震災の三日間』について議論をし、東京の街の「復興」自体が虐殺の加害者によって進められたことを指摘され、当然なんだけど、ハッとさせられた。街が成り立つ過程でその下に埋められてきた大勢の死者を想像する。2020年の混乱期に、饒舌に語り出す人、正義を振りかざした人、そして監視体制が強化されていったのを思い出す。

羊の怒る時 ――関東大震災の三日間 (ちくま文庫)

 

20231207


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労働の日。帰宅してから昨日のアーカイブを見る。絶望的だが、絶望している場合ではないとも思う。

 

20231208

職場で「素朴」にゼノフォビアや「生活保護不正受給」について語る声を聞き、驚愕と憤怒と悔しさと諦めが入り混じった気持ちになった。職場について詳しく語ることはできないけど、とりわけそのような立場性において語ることの暴力性を強く感じた。即座に怒ることが重要だと思うけど、年齢・ジェンダー・職場上の立場等、複数の権力を持つ相手に対して即座に怒りを表明することは、わたしにとっては難しい。毎回、なんであのとき怒れなかったのだろうと後悔する。そのときにできるのは、少なくとも同意はしない・笑いに改変させないということくらいだ。怒る訓練が必要だと常々思っているけど、実地でうまくいった試しはまだない。怒りを隠すことは容易いのに、怒りを表明するのはなんでこんなに難しいのか。

 

20231209

先月の学会で知り合った方のお誘いで、近接領域を研究している他大院生たちと出会う夕餉となった。思わぬ形でコミュニティの狭さを知り、実はとても近いところにいたことを知る。所属ゼミはいい意味でもそうでない意味でも雑多であり、後者の意味において、自分の研究と近い人が少ないことを感じていた(つまり共通文献が少ないということ)。雑多であることは、より自分の研究を広げるという意味でとてもよくて、今までとくに不満を感じたことがなかったというか、むしろ気に入っていたのだけど、D進して以降方向性や方法論に悩むことも多く、その悩みが共有しにくい点で別の繋がりを求めていた。学会に参加する意義は人との出会いなんだなと強く実感。ここで出会った人とは来年から一緒に勉強会・研究会を定期的にすることになった。ほんとうにうれしい。オンラインは基本的に苦手で避けたいのだけど、遠方のメンバーがいるからきっとオンラインになると思う。近いメンバーだけでもオフで会ってちゃんと議論ができればと思っているけど、どうなるかな。

 

20231210

昨日知り合った人とも再会する形で、学会へ。今回は会場が関西圏だったこともあり、日帰りでサクッと行ってサクッと帰れた。とある資料が最近見つかり、その資料に関するグループ報告を聞きに行った。目的は、その資料の中に自分の研究と何らかの重なりがあるのでは(そうであるなら、その資料を使うことができるし、自分の研究の方向性を少し見定められるのではという目論見)と思って聞き、個人的にも報告者に質問をしてみたのだけど思っていたような回答は得られなかった。そんなうまいこといかないか。でも、先月の学会でも会った方と再会し、名刺をもらいっぱなしだったと思い、今回は自分の名刺を渡せた。できたてほやほやの名刺。この方ともいずれ研究のことを話す機会が持てればなと考えている。

お目当ての報告を聞いた後は、帰りがてら昨日の方たちと昼食。ひょんなことから、最近「LGBTQIA+」の「I」や「+」の部分についての講義を受けているという話を聞いた。話の途中で自分にとっては少し衝撃的な発言があり、言葉に詰まってしまった。わたしは能動的に名乗らないことを選択して生きているけれど、「Q」「A」「+」に限りなく近さを感じる(と今のところ説明しておく)自分は、この人たちの前で名乗った方がいいのだろうかと一瞬悩んでしまった。つまり、目の前にいる人間がそうした名乗りに親和性を感じる人間だと思っていない発言だったということ。ゆえに、どんな言葉を発したらよいのかわからなくなった。こういうとき、毎回名乗りについての再考を迫られているように感じてしまう。もごもごと言い淀んでいたら、うまく説明できていないと思ったようでさらに「丁寧」に説明をしてくれて、余計に苦しくなってしまった。ある特定のテーマで議論がはずんでも、それが自分自身のプライベートなことにまで派生してしまうと、うまく話が進まなくなるということは往々にしてある(セクシュアリティだけでなく、身体や病気、生活、家族のことなど)。

 

20231211

労働。辞める日が近づいてくるにつれ、職場の人間関係のよくない部分について目が行くようになり、というか嫌だったことを嫌だと思っていいのかという自覚ができたためにそのようになり、しんどいものがあるなあと思う。辞めるからいいんだけど。嫌がらせをされているわけでも給料を支払われないわけでもないし、と思って何も思わないようにしていたのだけど、同期と話しながら、そういうことでなくともおかしいことはおかしいと思っていいことを自覚していった。自分に免疫があるのか、鈍いだけなのかわからないけど。いい職場とはどういうことなのか、適切な仕事のあり方とはどんなものなのかを最近よく考える。

 

20231212

昼、打ち合わせ。夕、労働。学会で知り合った人たちと研究について話すとたのしいんだけど、打ち合わせの人たちと話すと自分は研究向いていないと思えてくる。何か言われたとかではないけど、場の雰囲気がそんな感じ。気持ちの浮き沈みが激しい。自分の至らなさばかりが見えてきて嫌になってしまう。

 

20231213

ゼミの日。午前は参加、午後は不参加。でもゼミ後の食事会には参加することになった。強気の押しに負けてしまい。どうしても参加したくないとかではないし、たのしいこともあるんだけど、大人数の場は自分の声がかき消されていくし、酒で緩んだ些細な発言に苦しくなったりするから最近はめっきり参加してこなかった。ワインのボトルが2本、3本、4本と追加されていき、酒飲みはすごいなぁと思わず感心してしまったのと同時に、過去の嫌な記憶がすぐに顔を出し、気持ちが沈む。酔っ払いの相手はもう一生分したと思ってるし、酒の嫌な部分もお腹いっぱいってほどに見てきた。でも、みんなが気分よく酔って賑わっているときにこんなこと思ってしまってすみません、とも思う。みんなが何かしらアルコールを注文するなか、ひとりだけノンアルを突き通すたび、気まずさを感じている表情を見て、こちらも気まずく思う。飲めないわけじゃなく(いうても、弱い)、自分の意思で飲まないことを選んでいるから余計に。気まずい表情を見るたびに、こういう場にはやっぱり参加しない方がいいのかなとも思う。飲むにせよ、飲まないにせよ、ずっとあの人の呪いに絡めとられているようで本当に嫌気が差す。いつか、「治療」といっていいのかわからないけど、そういう自分の生い立ちと向き合ったり理解するプロセスをちゃんと歩まなければならないと思う。

 

20231214

健康診断。職場の関係上、受けることになったんだけど、改めて考えてみたら病院でちゃんと健康診断を受けるのは初めてかもしれない。体調が悪くて検査したことはもちろんあるけど。流れ作業のように検査を受けていく。番号を呼ばれて一人ずつ検査されていくその様子を客観視したとき、ちょっと気持ち悪い感じがした。漠然と、『わたしを離さないで』のような世界観を思い浮かべる。

その日に結果がわかる診断の中では特に異常はなく、痩せを指摘されたくらいだった。でも人生の大半こんな感じですと伝えたら、なら問題ないでしょうとのことだった。あとは後日わかる診断を待つのみ。

夕方から先輩と読書会。読書会といっても新書なので、軽め。なかなか面白いテーマ設定で、ところどころ力技だなと感じるところはあったけど、新書を書くことの難しさを思うとまじリスペクトしかないねという話になった。でも、各々の研究に深く関わる人物が記されていたのもあって、その部分は結構話が白熱した。たのしい!一人で読むことでは得られない読書体験が読書会にはある。

ただおしゃべりをしていたとき、前日の食事会で「イラッとしているとき何か日本語で言葉が出る?」と尋ねられたときの話をしていた。人によっては生まれ育った地域の言葉だったり、学んだ言語だったりしたんだけど、わたしはそもそも言葉が出ないかなという返答をしたと話したら、先輩に「それはジェンダーも絡んでいると思うよ」と言われた。たしかにそれはあるかもなと思った。イラッとしたとき、生死に関わる強いワードを出すことはまずないんだけど、かれらはそういう言葉を口に出すと話していた。そもそもそういう反射的な強い言葉は圧倒的に言われる側だったし、「女」がそういう言葉を使うのはけしからん、はしたないと教育されてきた。そういうのは、男子の喧嘩=元気が良くていいねと言われるのと同根だろう。わたしにも、かれらにも根付いている悪しき価値観。

 

20231215

すごーく面倒で嫌だった授業の最終回。フェローシップを受給している関係で受けなければならない授業だった。初回はこんなところでやっていけるのか?と不安しかなかったというか、あまりにも馬鹿馬鹿しいと思ってしまってたんだけど、先生が突き抜けすぎててもはや笑うしかなかったし、一周回ってこれはこれでいい教育方法なのかもと思ったり。授業の内容がためになったとかではないけど、教育という点で納得した部分はあった。普段交わらない分野の人や話す機会のなかった同研究科の先輩と話すことができたのもよかった。授業後には先輩たちとインドカレーを食べて、おしゃべりもできて、結局いい時間だったかもなんて思っちゃっている(チョロい)。学会や研究発表の場において、論破して報告者が何も言えなくなることをよい批判だと勘違いしている人は多いよね(=批判と否定は違うだろってこと)とか、本来発表の場は互いの研究をよりよくするための場なのにねという話をして、分野は違えどそう思っている人が他にもいることが救いだった。論破文化滅びろ。

話の流れで出身大学の話をすることになり、やはり女子大という場はわたしにとってかなりユートピアに近い空間であったことを再確認した。女子大が持つ問題点もあるし、特に卒業後にはトランス女性の受け入れに関してかなり内部が分断しているという話も聞いていたから、ユートピアと断言することはできない。それでもなお、高校までずっと共学で卒業後も共学に戻った身からすると、やはりユートピアに近かった。性的にまなざされることがなく、他者との距離を適切に保てる場という意味でユートピアだったし、大学の外にはそのような空間が確保されていないという意味でもユートピアだった。安全であるという感覚がたしかにあった。こういう話はあの場所を卒業した友人ともよくしている。翻ってそれは、あの場所から出たわたしたちの日常があのユートピアとはかけ離れているということを意味しているのだけど。

 

20231216

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ちょうどハマった頃のKpopプレイリストを聴く。全然昔って感じしないけど、普通に6年以上経っていてびっくりする。時間の流れが早すぎるよ。

そういえば冬のプレイリストをつくった。新しくプレイリストをつくったのは久々だ。ジャンルはいろいろ混在、冬風にあたりながら歩くときとか、布団のなかでぬくぬくしながら聴いている曲をまとめた感じ。

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夕方に旅するgallery&salon『inoli』へ行って、「梅の香 桃の実 桜の花」という書店で日記本を買った。この間BONUS TRACKで開催されていた日記祭にいろんな人が行っていてちょっと羨ましかったのもあるし、実は、共同で制作中のzineが間に合えば売りたいなと思い、夏くらいだったか、出展の申し込みをしようか迷っていたのもある(結局間に合わず、というか作業中断中)。わたしも人の日記本読みたい!という欲がムクムクと拡大していて、そんなとき京都で購入できる場所があると知って行ってみることにした。

購入したのは柴沼千晴『親密圏のまばたき』と、途中『自由研究—子のいる人生 子のいない人生』

場所柄、生活圏外の人はなかなか行かないような場所で、内心結構ドキドキしながらドアを開いた。他に人がいなかったのもあって、出品されていた本をゆっくりと眺めたり、アクセサリーや絵なども見させてもらった。帰り際には「お試しなのでどうぞ」と野草茶までいただいてしまった。お茶はとても好きなので、うれしい。
まだパラパラとページをめくっている程度で、ちゃんと読み始めていないけど、自分の書いたものに手をかけてちゃんと形にして誰かに届けるということをやり遂げている、そのこと自体に拍手喝采である。『親密圏のまばたき』は約半年の日記が1冊になっていて、これだけの量の日常を記して残せるなんて、もうそれだけですごいなぁって。また読んだら感想を書き留めたい。

 

theworldofsilence.hatenablog.com

この間北海道で再会した友人のことを書いた過去の記事を見つけた(すっかり記憶から落ちていた)。自分で書いておきながら自分でうるっときてしまった。途絶えない関係性はちゃんとあるし、その関係性があることは十分に幸せなことなんですよ。まだまだ根強い単一的な「幸せ」を、いつだって攪乱してやりたいし、「幸せ」はもっと多種多様で多義的で多面的だと主張しつづけたい。関係性に優劣はないし、すべての関係性に名前をつけなくたっていいよ。わたしたちがわたしたちであることを確認し、ときどき更新したりしなかったり、それだけでいい。