2021/8/6

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一昨日、ワクチン2回目を打ってきた。それに先行して、万が一体調が悪化した時に備えて、明日締め切りのレポート課題を終わらせた。ラッキーなことに、熱や頭痛といった副反応は出なくて、レポートの心配も杞憂に終わった。もう数日は体調が悪くて外へは出られないだろうなと思っていたけど、幸い腕の痛みや多少のだるさだけで、今日は腕の痛みもだいぶよくなっていたから、思わぬ早さで夏休みを始めることができた。一応先生に提出する前に、推敲しようと思っていたから、今日推敲した後提出して、午後からは観たかった映画を観に行った。東京に住んでいたときもそうだったけど、都市に住んでいるといい映画を観ることができるから、本当にありがたいなと思う。


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台湾の白色テロ時代を舞台にしたホラーゲーム原作の映画。ずっと公開を楽しみにしていたから劇場で観れてよかったけど、ホラーというだけあって、音響効果にいちいちビクビクしてしまった。内容としてはいわゆるホラーとは少しズレるから、そういう意味では怖くないし、1人でも観れる映画なんだけど、こういう時代が実際にあったということが実は本当に怖いことだよね。
映画の中で、「生きていて」「そして覚えていて、何があったのか忘れないで」というメッセージがあったようにわたしは思ってるんだけど、ここがすごく納得というか、そうだよなーって思った。明確な言葉を持って抵抗ができなくとも、何が起きて誰が何を言ったのかということをきちんと覚えておくこと、そしてできればそれを記録しておくこと。これは立派な抵抗の手段になりうるんじゃないかと。たしかに即効性はないかもしれないけど、きちんと記録してくれた人がいたからこそ、歴史上明らかになったこともたくさんあったのだから、記録することは抵抗の手段だと思う。

 

今日で広島に原爆が投下されて、76年目を迎えた。NHKの方針も、菅のありえないスピーチも、何もかもありえなくて、相変わらずオリンピックもフツーにやってしまっていて、もう嫌気が差しまくりなんだけど、なんとなく、今の雰囲気の中でわたしはSNSに自分の意見を書けないなーなんて思っている。別に今日に限らず、わたしはわたしが一番真剣に考えていることほどSNSには書いていない。どちらかといえば当たり障りのないことばっかりだと思う。特に自分が研究として取り組んでいることに関しては、おそらく前のアカウントの時からひとことも発していないんじゃないかな。たぶん。SNSに書いて意見を表明することがすべてでは、まったくないから、それはそれでいいんだけど、わたしはきっと自分の曖昧さを他者に開示することが怖いんだろうなと思う。特に顔の見えない相手に対して。(怖いと思うことが悪いことだとは思っていないので、改善しようとも特には思っていない。)広島のこと、長崎のことで「正しい」意見を堂々という人たちがすこし怖い、と今日思ってしまった。その自信と正しさへの強さみたいなものはどこから来るんだろう、と。広島のこと、長崎のことを表現する時に(この二つに限らないけど)、どう表現することがベターなんだろうか、と思ったりする。原爆投下当時、広島、長崎には朝鮮の人々が約7万人いたと言われている。なぜこれだけ多くの人が当時あの場所にいたのか、いったいどれだけの人がそのことをきちんと知った上であの強い「正しさ」を表明しているんだろう。あの慰霊碑の文言について、どれほど真剣に考えたことがあるのだろう。なんとなく、そういう捻くれた考えばっかりをしてしまって、何もあの場所では発言できないなーと思うことが多くなった。曖昧さを許さない言葉が多くなった気がする。硬直化した言葉が強さの証明かのように氾濫して、それがどれだけ正しかろうと、わたしはなんだか息苦しさを感じてしまって、すぐにシャットアウトしてしまうし何も言えなくなる。あらゆることを考えれば考えるほどに、柔軟な言葉が見つからず悪循環のままで同じ場所にとどまってしまう。どうすればもっと風通しの良い言葉を使えるんだろうか。

 

今日ふと腕がかゆいなーと思って、お風呂のときに鏡を見てみたら腕がモデルナアームになっていた。赤くなって、やや腫れている。数日で治るだろうけど、痒くて、気づいたら右手が動いてしまう。後々傷になるのが嫌だからなるべく痒きたくないんけど。

 

大前粟生がめちゃくちゃよい。とってもとってもよい。とりあえず出てるの全部読みたい…。