大丈夫なふりばかり上手になってしまった

「幸せそうな女性を見ると殺したいと思うようになった。誰でもよかった」

 

こんな発言がまったく珍しくないことも、女性というただそれだけで命や身体が日常的に危険に晒されていることも、わかりすぎるほどにわかっていた。今回だけがたまたま起きてしまったことではない。何度も何度も同じことは毎日毎日起きていた。いつもわたしは怒っていた。嫌気が差していた。嫌悪感に満ち満ちていた。

 

それなのに、どういうわけか今回のニュースを見たときに、「あぁ、またかよ」と思いつつも自分の身体が、心が、パリンッと割れてしまったかのように痛くて、もどれなくて、かなしくて、つらくて、今もずっと血が流れている。「大丈夫?」って聞かれたら笑って「大丈夫だよ」って言ってしまいそうだけど、ぜんぜん大丈夫なんかじゃないです。「大丈夫じゃない」って言うことの方がずっと難しく感じてしまうくらいには、大丈夫なふりをすることが上手になってしまった。

 

今日は予定があって外に出なければならなかったけど、ずっと背後がこわくて、でも誰の声も聞きたくなくてイヤホンをして音を流して歩いた。でも誰かの気配を感じたとき、ちょっと笑い声が聞こえてしまったとき、すれ違った人とうっかり目が合ってしまったとき、お腹がぎゅっと搾り取られるくらいの緊張が走って、肩に力が入って、うまく呼吸ができなくなった。全身から、血が、流れても流れても際限なく流れ続ける。どう見ても大丈夫じゃないのに、誰もわたしの血が見えない。身体中が痛くて一歩を踏み出す足もとてつもなく重いのに、もしかしたらわたしは「幸せそうな女性」と思われているのかもしれなかった。

 

会ったことも話したこともない人にナイフを突き刺されたのはわたしだったのかもしれなかった。そう思うことが自然だと思えるくらいの体験は何度も何度もあったし、それがわたしの日常だった。日常が悪意と殺意にまみれていた。そのことに気づくたびにゾッとする。

 

たくさんの人が怒っている。でも、わたしは今怒れない。血の止め方がわからない。どうやって生き延びればいいのかわからない。わたしの半径5メートル以内に誰も入ってこないでほしい。誰も何も言わないでほしい。誰も笑いかけないでほしい。誰かの人間性の問題なんかではなく、この社会の問題で、その人を取り巻く環境の問題なんだってわかっているのに、こわくてちゃんと前を見れない。自分の流れ出ている血を見て歩くことしかできない。

 

ちゃんと怒って、批判して、連帯しようとする声が大きくて強い。強くて正しいはずだけど、今はそこに入ることができない。その強さに巻き込まれることでまた自分の傷が広がってしまうような気がして、今は下を見ていることしかできないよ。傷のなかった自分がどんなだったかもう想像ができない。そもそも物心ついてから、傷のついていなかった時期があったんだろうか。歳を重ねるごとに傷の数が増える一方で、いつもその場凌ぎの応急措置しか取ってこなかった。それが昨日、一枚、また一枚と剥がれ落ちて、生々しいままの傷が姿を現した。この傷がどうすれば治るのか、瘡蓋ができるのか、わからないままに息だけして今も生きてる。

 

自分のことだけでこんなにもどうしようもなくて、情けなくて、ままならないのに、社会に何かを発することなんてできない。特効薬なんかなくて、できることは学んで、声を上げて、言葉を持ち続けることだとわかっているはずなのに、もう何もかも放り投げてこんな世界から即刻退場したくなっている。人と会うのも、人のいるところに行くのもこわくて泣きたくなって吐きそうだ。