2021/6/14

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夜だ。日記はたいてい朝、たまに昼過ぎくらいに書くことにしていて、夜にこうして1日を振り返るのは案外珍しい。今日は、というか昨日から今日にかけて散々なザマだった。せっかく離れて暮らしているというのに、相変わらず親のことで振り回されている。どうして自分がこんな想いを抱えていなきゃいけないんだろうと悲しくなって、それをあまり気軽に人に相談できないところがまた苦しさの原因になっている。詳細はとてもじゃないけどここには書けない。きっと親が死ぬまでこの状況の繰り返しなんだろうなと思うと心が滅多刺しにされるかのようで、うまく呼吸ができなくなる。家の環境も家族の様子もかなり特殊で、それが人に相談できない大きな壁になっているように思う。幼い頃から「いいな、恵まれていて」「お金あっていいね」とか悪気はないであろうけど鋭い言葉を散々浴びせられてきたために、そういう素振りを見せないように必死だった。その言葉はもちろんある側面では正しいのだと思う。それは十分に認められる。その証拠にこうやってちゃんとした家で暮らせてるし、大学院にも進学した。けれど、その言葉は同時に正しくない。本当に私の境遇を羨ましいと言ったあの子は、家に鳴り響く怒声や何かが割れる音を聞きながら鼓動を早くして眠れなくなる日々をも羨むのだろうか。自分の目の前で父が母に「子供がこんなふうになったのはお前のせいだ」と責め立てていたり、私本人に「親不孝者」と平気で言ったり、こんな状況をも羨むのだろうか。自分の考えも存在も人生も否定されて、言い返したいのに体が鉛のように重くなって、言葉が出る代わりに涙ばかりが溢れてくることをも羨むのだろうか。

 

暴力というのは案外他人からは見えないし、わからない。そして、暴力の後遺症は身体感覚に大きな跡を残す。今もほんのひとことであの家に漂う重くて暗い空気に、何かのきっかけで感電してしまう線が蜘蛛の巣のように張り巡らせられた空間に、一瞬で引き戻されてしまう。水中に沈められたかのように呼吸がうまくできなくなって、他に何も考えられなくなる。今日はそんなわけで全く勉強に手がつかなかった。忙しい週なのに、最悪だ。

 

私は今でもマスキュリンな男性がすこし苦手で、大きな声や大きな音には体が硬直する。どちらにしても家だけでなく、家の外で起きた10代の頃の経験も尾を引いているような気がする。

 

どうにもならないことばかりで、自分のすべてを呪いたくなる。だけど、この先親がどうなろうとも、自分のことを呪いたくないとも思う。そうなったらマジで自分ではその呪いをとけなくなりそうだし、一生自分で自分の首を締めながらかろうじて息をしているというレベルでしか生きられなくなりそう。ただでさえ生まれたくて生み落とされたわけでもないのに、自分のことまで呪い出したら行き着く先は目に見えてる。自分で自分の手綱を放すものか!とまだかろうじて思えているうちは大丈夫だと信じていたい。

 

こんなボロカスメンタルだった2日間、タイミングが悪すぎるだろうと思い尽くしたけど、そうなってしまったものは仕方がない。昨日今日と、推しのファンミーティングがあった。それはそれは最高で、生き長らえていてよかったと本気で思った。「また会おう」「健康に生きていよう」そのメッセージが彼らから発せられて、ちゃんと生きていたいと涙ながら口にしていた。至極単純だ。でもライブが終わった瞬間、不安になったのも事実。生きていたいけど、生きていられるだろうか。いつまでも余韻に浸っていられればよかったものの、あまりにも悩みが大きすぎて、そこまで単純ではいられなかった。京都へ越してきてから体重減少には歯止めがかかっていたのだけど、今回のでまた再発しそう。なるべく意識的に食べて、痩せすぎないようにしたい。

 

推しが大きく笑うとき、高音で歌うとき、後ろに仰反るところが好きだ。たしかに信じられる、信じたいと思える言葉を丁寧に紡いでくれる姿が好きだ。会いたいとストレートに言ってくれるところが好きだ。メンバーを互いにリスペクトしているところが好きだ。人の痛みに寄り添おうとしてくれるところが好きだ。目がなくなっちゃうくらいに思いっきり笑う姿が好きだ。自分が変われた部分をちゃんと肯定できるところが好きだ。星の数ほどたくさんの好きがある。その好きが今の自分を生かす土台になってくれている。その好きがあるかぎり、まだ大丈夫って言い聞かせている。

 

ちゃんと生きよう、大丈夫だ、そう言って指を一本ずつ動かしている。何もできないけど指は動かせる、と。ヨンジ先生の言葉を思い出しながら。