2021/8/28

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今日は午後から月一読書会の予定だったけれど、急遽リスケすることになったので、午後の予定がなくなった。本当は論文を進めるべきなんだけど、なんだか呆けてしまっていて(夏バテかもしれない)毎日後回しにしてしまっている。来月が少し恐ろしい。まぁともかく、今日の午後は違うことをしようと思っている(すでに午後なんだが)。積読ならぬ、積論文していたので、すこしそれを読み進めたり、気になっていたウェブ上の記事を読んだりしている。あとは来月から始まる新学期に向けて、取りたい授業のシラバスをパラパラと見ている。春に決めた授業から結構変えようと思っているので、今から楽しみだ。

 

むーちゃんから教えてもらっていたD-radio、最近聞けていなかったから昨日久しぶりにepi. 14を聞いていたのだけど、猛烈に対談に参加したくなる。わたしもそういう疑問、モヤモヤありました!って。細かい言い回しは忘れてしまったけど、荒井さんが差別をなくすことを目指そうとしないほうがいいって言っていて、わたしはなるほどなと思った。言葉だけを見てしまうと大きな語弊があるだろうけど、差別がないということが目標や理想とされてしまうと、「この社会は差別がないんだから」といって可視化されなくなる差別が出てきてしまうのではないかという問題提起だった(記憶が正しければ…)。この社会から差別が完全になくなることはありえないという前提を共有するならば、求められているのは差別がない社会を目標とすることではなく、逐一「その発言は差別じゃない?」と指摘しあえる場なのかもしれない。それは永井さんが言っていた「安全な場」というものでもあると思う。

これは本当にたまたま昨日読んだ鳥羽和久さんという方(存じ上げず、初めて知りました)の連載記事なんだけど、「第6回 差別があるままに他者と交わる世界に生きている」という記事で、ここで描かれている状景とD-radioの内容は少し重なる部分があるように思う。D-radioで最初の問いとして提示された「ダイバーシティ」「多様性」という言葉もそうだけど、概念や言葉だけが一人歩きしていて、ひとつひとつの状況や事案に対してきちんと考えるというプロセスが抜け落ちていることが本当に多いなと感じるようになった。口だけ「差別はいけないよね」「LGBTQ+の人たちへの理解を深めなきゃいけないよね」と、そんなことばかり言って、何が誰にとって差別になるのか、どういうことが誰を傷つけうるのか、人を傷つけるということがどういうことなのかということを考えられている人がどれほどいるだろうか。自分が善人である、自分は差別をしないとどれだけ思っていようと、これだけの差別が蔓延っている世の中で育った人が完全な善人であるということはありえない。自分も含め、すべての人がいつだって誰かを傷つけうるし、間違いだって何度も侵すだろう。そんなときには自分がいい行いをしているという思い込みから離れる必要がある。絶えず批判し合い、議論をし(論破ではなく)、さまざまな可能性について対話を深められる社会であることこそが、健全でよりよい社会だと言えるのかもしれない。